My Story

My Story

物語の終止符は、いずれ打たれる「はず」のものでありながら、

いつまでも打たれてはならないのだ。

人生のつける花々は幻にすぎない。
たいていは跡形も残さずに散りうせ、実を結びもせず、たとい実をつけたとしても熟しきる場合は少ないのだ。
それでも熟した実だって十分にあるのだからね。
だからそういう熟した実をないがしろに軽蔑し、味わいもせずに腐らせてしまえるだろうか。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』より
Amebaでブログを始めよう!
今日部屋の掃除をしていたら高校時代の手帳が出てきた。

高校三年間併せても、バスケをせずに遊んでた日っていうのが四日くらいしかない。

ただただ朝から晩まで、何であんなにバスケができたのかって思いながら、
見返りをまったく期待していない純粋な情熱の感覚をちょっと思い出した。

あんなに続けられたのは、見返りを一度も求めてなかったからだろう。
逆に、見返りを期待するようになったあたりから自分らしくなくなった気がする。


いまLinux、Apache、MySQL、PHPを使って、いわゆるLAMPの環境の中でWikiをつくろうと勉強している。

理転してから新しいことばっかりで、
常に周りのだれよりも出来ない状態で、
焦りを感じたり、早くを結果を出したいと思ったり、
速く認められたいと思ったりしていたけど、
「見返りを求めない」純粋に楽しむ気持ち、を思い出して、
いま目の前にあるものづくりに燃えてみよう。

その最初の作品として、自分なりに満足のいけるものをつくりたい。
ダ・ヴィンチ・コードを見てきた。

本はかなりエキサイティングだったけど、映画では細かい心理描写とかに限界があって原作ほどの興奮は味わえなかった。
だいたいキャストが間違ってる。

印象的だったことばは、

「何を信じるか。

  何を守るか。」


作品の展開を通して、宗教や歴史の「絶対」が揺らいでいき、
既存のStoryが解体され、すべてがかたちを失おうとするなかで、主体として何を信じ、何を守るか。
与えられたStoryや客観的真実としてのStoryが存在しなくなったとき、何かを信じ、何かを守ろうと決意することを通して、自分のStoryを生きる。

それが、「神が死んだ」世界を生きる僕たちに与えられた、自由であり、希望でもある。

「何でもあり」な世界に、何らかの制約を与えて意味を与えることができるのは、あるStoryを「信じる」ことと、その価値を「守ろう」とすることを通してのみであろう。

「守る」意志のない世界にStoryは存在しえない。

自分の母、父、子供、兄弟とか自分ととても親しい人が、突然まったくの他人のように思えてしまう。そういう症状のことをカプグラの妄想という。


他人のように思えてしまうだけでなく、この人はエイリアンなんじゃないかとか、実はロボットなんじゃないかとか、かなり独創的なStoryまで作り上げてしまうらしい。


なんでこんなことが起こるのかというと、そもそも親しいはずの人と接しているときに生じるはずの「親しみの感情」が何らかの理由で脳内に発生しなくなってしまう。

本来生じるはずの感情が生じない、という事態につじつまを合わせるために、脳が勝手にStoryをこしらえる。

このとき、とんでもなくCreativeな妄想が作り上げられたりするらしいのだが、本人は苦労する様子もなく、さも当たり前のようにその独創的な妄想を信じ込むのである。


つまり、はじめにいつもと違う感情があり、そこからほぼ自動的にその感情を合理化する物語が生成されるる。

そういうイメージだ。



実はこれに似た感覚を覚えることって日常的にないだろうか。

つまり、自分が話していることや生み出しているものっていうのが、決してロジカルに苦労して作り出されているわけではなくて、自分の中のことばにできない感情みたいなのがまずあって、まるでその感情が自動的にかたちになっていくかのようにことばを発したり、ものをつくったりする。

つまり、感情の必然的帰結として創造がある。みたいな感覚。



以前、甲野先生とお話していたときに、

「例えば今日道場までの道のりで何が視線に入って、そのときどんな感情を抱いたかとか、そういうことがものすごく身体に影響を与えているわけです。今日電車が少し遅れてちょっといらいらしたとか、電車の席を譲るべきかどうか躊躇したとか、そういった一つ一つのできごとが今の身体の状態に決して無視できない影響を与えている。」

というようなお話をなさっていた。


僕たちは日常の中で、たくさんのささいなできごとに出会い、たくさんのささいな感情を抱く。

今日はいい天気だ。

なんでこんなとこに花が咲いているのだろう。

レポートなんてなければいいのに。

今日の昼は何を食おう。

あっ、来週飲み会じゃん。

あ、いまのおばさん見たことある。

・・・


そういった感情が一つ一つ自分の中に蓄積され、その蓄積された感情の総体が身体化され、その身体化された感情が創造の源泉になっているとしたら。


なんか面白い気がする。


つまり実はイラレのスキルを挙げたり、いろいろな知識を身につけたり、たくさんの作品をつくったり、そういうことだけでなく、

今日何を見て、何を感じるか。

今日誰と話し、何を思うか。

そういうことが自分の創造そのものを形成していると考えることもできるのではないか。



そういう風に考えると、今日出会うひとつひとつのささいな出来事をもうちょっと大切に出来る気がする。

ヒトはいったいどこに向かうのか。


いずれにせよ、いまヒトが歴史上重大な大変化を前にしてるだろうことを間違いない。


生命とは何か。

人間はどこまで機械か。

人間はどこまで脳か。

「自分」の本質とは何か。


そういう重大な問題をいくつも背負って生きていかなければならない時代なのだ。


今日、立花隆のサイボーグシリーズ続編『立花隆が語るサイボーグの衝撃』を見た。

押井学(映画監督)、川人光男(脳科学者)、河合隼雄(心理学者)などとの対談を通して、サイボーグ時代に突入しようとする人間をめぐって様々なことが語られた。


脳科学の技術が進展し、「脳から情報を取り出そう」ということがまじめに言われ始めたのは2000年のことである。それがたったの数年でBrain Machine Interfaceが急速に発展し、いまや障害者が脳の信号を使って直接カーソルを動かし、ロンドンの研究者が自分の脳から指令を出し、インターネットを経由してアメリカにある義手を動かしているのである。

アメリカの有名なナイトバーでは、会員が全員コンピュータチップを簡単な注射器で体内に埋め込み、そのチップを通して個人を識別し、自動的に料金を振り込めるシステムを採用しているという。


Brain Machine Interfaceの発展とともに、人間のコミュニケーションのあり方が劇的に変わることは間違いない。
人間のコミュニケーションの歴史をたどってみると、
言語→文字→印刷→電信→電話→インターネットと来て、次は脳と脳を直接つなぐ神経接続によるコミュニケーションの時代がくることはほぼ疑い得ない、と川人教授は言っていた。


確かにヒトはこれまでも多くの劇的な変化を経験し、それに対応してきた。

服を着るようになったこと。

ことばを使うようになったこと。

コンピュータを使うようになったこと。

そのどれをとっても人間にとっては大きな変化で、脳はそのたびに大きな変更を求められてきたのだろう。

しかし、脳の信号を直接取り出し、ネットワークとつなげてしまう。

言語や感覚器官を介在せずに直接他者とつながってしまう。
この大変化に対して人間はどう反応するのだろうか。
果たしてこうした事態に直面してもなお人間は自己自身のIntegration(統合)を保つことができるのだろうか。

不安に感じずにはいられない。


人間の好奇心と、未知への欲望を、さらに軍事技術が加速する。

軍事においては「勝ちか負けしかないから恐ろしい」とは河合隼雄のことばだが、果たしてヒトは止まるべきときが来たとしてブレーキをきかせることができるのだろうか。


僕は決してサイボーグ技術に対して否定的な感情ばかり抱いているのではない。

産業革命以来、機械文明を築き、一種のサイボーグとしての都市を生きてきた私たちが、機械との共存を模索し、やがて機会が人間の内側へと入り込んできることは、ある意味では歴史の必然であろう。

人間の進むべき道は与えられてはいないのであって、私たち自身が選択し、築いていくものだ。


しかし、築くことは壊すことほどたやすくはない。
創造することは解体することほど簡単ではない。

ヒトには創造の準備が出来ているのだろうか。

自然は、そして人間はパーツの集合ではない。


革命を前に、私たちはたくさんの問いとまっすぐに向き合っていかなければならない。

人間は一体どこにむかっていくのだろうか。


生命は、一体どこにむかっていくのだろうか。


もし運命というものが存在するならば、人間の、生命の、そして宇宙の運命を信頼してもいいのだろうか。


そして、もし運命というものが存在しないならば、自らその進むべき道を選び取っていこうとする自分自身の「意識」を信頼してもいいのだろうか。


「わたし」は宇宙の中でどのような意味を持つのだろうか。


そして、意味などないとしたら、この切実な「意味」への欲望はどこから来るのだろうか。



こんなちっぽけな自分が、かろうじて今日も生きている。


そして世界を感じ、思考し、表現しようとしている、かのように思える。


何の根拠もないのに、明日もまた「自分」として、この世界に存在してるだろうと信じている。



何か、自分とこの自分が感じ取っているところの世界とをしかとつなぎとめるものが必要だ。


今にもかたちを失い、崩れていってしまうのではないかと思わされるほどに、

頼りなく俺の前に存在しているこの世界に、明確な輪郭を与える何かが、必要だ。



そして、この切実な欲求と不安とからの解放を求めて、俺は創造を志向する。

人間には「成功回避欲求」というのがあるらしい。

つまり、あまりにもすべてがうまくいくのが怖い、という感情。
これは特に、幼いころ両親に大事にされてきた人に現れがちな現象らしくて、両親の期待を裏切ってみたいというささやかな抵抗の精神から生じるらしい。と心理学者は言っている。

原因はともかく、成功回避欲求というのがあるらしいことはよくわかる。

何もかもがあまりにもうまくいっていると、なんとなく怖くなってくるし、「遠慮する」気持ちが心の中で出てくる。

もうこれくらいでいいんじゃないのか。ってなってしまう。


だからこそ、「うまくいっているときこそ、次の一手を!」っていうのはすごくでかいんだと思う。


自分の中で、すべてがうまくいっている!と感じて気持ちが高揚することがある。

けど、そこで気持ちが高揚したままになってしまうと、そこで試合終了だってことはバスケ部時代に痛いほど学んだ。
自分は成功しているって感じ始めた瞬間、敗北がはじまる。
成功の心地よい昂揚感の中で、順調に堕落していく。

そりゃうれしいときは興奮して、わくわくして、気持ちも高揚させて、あーもう死んでもいい!とかって思ったりする。
でもそのあとすぐに切り替えて、成功なんて忘れてしまう。
成功の喜びを味わい尽くしたら、手っ取り早く手放してしまう。
そして、また次の小さな夢に向かって一からスタートする。

それを繰り返してないと、自分は成功したと勘違いした心のなかに成功回避欲求とやらが頭をもたげてきて、徐々に自分を蝕んでいく。


そのことを何度も何度も肝に銘じる。


いいことがあったら、死ぬほど喜ぶ。
死ぬほど喜んだら、次の日にはもうすっかり忘れてまた歩き出す。
そういう毎日が楽しくて仕方がない。

毎日新鮮な感覚で、新しい山を登っていくような感じ。


過去の成功なんて、忘れてしまえばいい。
徹底して忘れていけば、忘れていくほど、その成功は身体の中に誰からも奪い得ない力として、手ごたえのある確かな「自分の力」として息づくようになる。

ほんとの意味で「過去を大切にする」っていうのはそういうことなんだと思う。
自分の歴史、自分の過去に誇りがあるからこそ、過去を尊重する気持ちがあるからこそ、それをきっぱりと忘れようと思えるのだ。


成功を脱ぎ去ったあとに体に残る、微妙な快感が好きだ。

真理がそのヴェールを剥がされても、やはり真理であるなどとは、われわれはもはや信じない。
こんなことを信じるには、われわれは長生きしすぎた。
すべてのものを裸にして見ないこと、すべてのものに近づきすぎないこと、すべてのものを理解し「知ろう」と欲しないこと、これは今日のわれわれには嗜みの問題と思われる。

「神様が何もかもみていらっしゃるというのは、ほんとう?」
と幼い少女が母親に訊いた、「ずいぶん失礼じゃない」
―哲学者への示唆だ!
われわれは羞恥をもっと尊重しなければならない、
―自然が、謎や、多彩な不明確の背後に自己を隠しているその羞恥を―。
あるいは真理は、そのもろもろの理由を窺わせたくないような理由をもった女性なのだろうか?あるいは彼女の名は、ギリシア語でいうbauboだろうか?・・・
おお、このギリシア人! かれらは生きることを心得ていた、
―そのためには、表面に、皺に、皮膚に、敢然として踏みとどまること、仮象をあがめること、かたちを、音を、言葉を、仮象のオリンポスの山そのものを信じることが必要なのだ!
このギリシア人は表面的であった―深さから!


(ニーチェ『華やぐ知恵』より)


深いところにあるかもしれない何ものか。

その何ものかに対する羞恥を生きること。

深さから、表面を生きること。表面にとどまること!

そういう生を生きたい。


羞恥を生きるということを、別の角度から見てみよう。


“秘部”は剥き出しになったその瞬間に消失する。適量の矮小な快楽の余韻を残して。そしてその小さな快楽をもとめて、また同じサイクルが蒸し返される。結末、つまり“秘部”の充溢した現前はいつも繰り延べられる。それだけではない。
この“秘部”は、隠されたものを露わにしてゆくという物語のなかでのみ意味をもつのであって、その物語の外部では、「白けた」ものでしかない。いずれにせよ、“秘部”はいつも空虚のままである。
そうするとわたしたちは次のように言いたくなる。一枚ずつ剥がされてゆくヴェール、それは背後を覆い隠すのではなく、背後には何もないということを隠しているのだ、と。だからこそ最後のヴェールは剥がされてはならないのだ、と。
そのためには、わたしたちはいつもあの「隠されたものが露わになってゆく」という物語にとどまっていなかればならない。言い換えれば、「結末」へと向かうプロセスそのものにとりつかれていなければならない。それには身体の包装に凝るのが一番だ。

(鷲田清一『モードの迷宮』より)



鷲田氏によれば、人が「結末」へと向かうプロセスそのものにとどまり続けるための装置としてファッションは機能している。

深さと浅さの間を揺り動かす力としてのファッション。


羞恥とは、「何ものかが隠されている感覚」から来る。

そしてこのときその何ものかが、何であるかは本質的でない。

むしろ何も隠されていないかもしれないのだ。


隠された何ものかの予感にとりつかれて、

その何ものかに向かっていくという物語を生きる。


羞恥と、生成し続ける物語とによって、

虚無を、ニヒリズムを乗り越える。

デカルトっていう人はむかし、
「我思う故に我あり」といいました。

自分の周りの世界を見ていて、「確か」なものってどれくらいあるだろうって考え始めたら、何だかすべてが「不確か」な気がしてきて、目の前にある電球が実際そこに存在するのか、それすらも不確かな気がしてきて、自分が今まで信じてきたことをすべて疑ってみたら、
「そんなすべてを疑っている自分、それは疑いようもなく存在しているじゃないか」という結論に達したわけです。

cogito ergo sum!
これだけは真理だ、とデカルトさんは思ったのでした。

デカルトに始まる近代的な価値観みたいなのは、こういう「確かさ」が大好きみたいです。

確かであること=真理

というのがいまや当然のことのようにすら思われている。


だから科学は真理に向かってるのではないかと信じたり、
論理力が大事!
なんていううそくさいことばたちが溢れていたりするわけです。

何で人を殺しちゃいけないの?って子供に聞かれて、論理で返そうとしてことばにつまったりしてるわけです。


しかし、疑い得ない確かさの中にしか真理を感じとることができない人ばかりではないのです。幸いかな。

そんなに「運動神経のない」人ばかりではない。

古代インドで生まれた哲学なんかはデカルトとはだいぶ違うスタンスで、真理というのは不確かなもののなかにも問題なくありうると感じていたわけです。

真理を確かなものとして、固定せずとも、
不確かなものとして、そのまま引き受けようとした、
そういう哲学もあったのです。


いまヨガって流行ってますね。

あれはインドで生まれたウパニシャッド哲学の、4大ヨーガの中のひとつ、「ラージャ・ヨーガ」というものから来ています。

インドの哲学はものすごくよく出来ていて、
4つのヨーガというものを大事にしていて、
そのどれかだけに偏ってはいけないというわけです。

ラージャ・ヨーガとは、肉体的修練のことで、
いま流行っているヨガをイメージすれば分かると思いますが、
身体的修養を通して、世界を感じる、身体感覚を研ぎ澄ましていく中で精神を鍛える、というような修行です。

二つ目のバクティ・ヨーガは、人格神を愛すること。
つまり、自分の力を超えた何ものかの力を信じ、愛するということです。

三つ目がカルマ・ヨーガ。これは一言で言えば献身のことであって、ひたすら他者のために活動するということです。

最後がジャーナ・ヨーガ。これは知をもって世界をより正しく知ろうとする道。いわば学問の道であります。


この4ヨーガというのを見たときに俺は感動しました。
なんて合理的なんだ!と。


資本主義社会を成り立たせている思想は、一見すごく合理的で「自分の利益をとことん追求せよ」っていう、これ以上なく「自分のためになる」思想に下手すると見えるけど、
古代インド人はもっともっと賢かった。

どうすれば、自分が一番得できるかをよーく知っていた。


頭を使って世界をよりよく知ろうとする。
でも頭ばっか使ってても何も分からないから、身体を動かして、感覚を磨く。
そして、それでもわからないことなんていっぱいあるんだから、自分を越えた力を認めて、それをひたすら愛し、信じる。
そして、休みなく他者のために、他者だけのためにひたすら活動する。


これはボランティア精神でも、倹約精神でも何でもなくて、いっちばん合理的な考え方を追求した必然的帰結なのに、それがわかる人があんまりいないから、
資本主義なんていう入門者向けの(=誰にでもわかりやすい、ベストセラーになりやすい!)思想が世の中を動かしちゃっているわけですねぇ。


ほんとにいいものは、
いつだって多数決では負けるのかもしれないのです。