【63】キャタピラー 2010/09/04 | 太ったうさぎのほにゃほにゃブログ

太ったうさぎのほにゃほにゃブログ

普通のリーマン(但し太め)が書く日記?

二年前に若松孝二監督作品の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」を観て、かなり考え込んでしまった。今回若松孝二監督作品ということで行ってみようと思っていたところ第60回ベルリン国際映画祭で寺島しのぶさんが銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞したというニュースを知り、より興味を持って行ってみた。

R-15作品ということなので、きっとレイトショー上映があると思っていたのだが、地元の映画館ではど昼間しかやっていなかった(実は「バイオハザード4」の先行上映があったため夕方の回がなかった)のにはびっくりした。また地元では9/10までの上映予定なのだが、映画館が結構混んでいるのにも驚いたが、これはやはり銀熊賞のニュースの影響なのかな?

太平洋戦争中の山村に一人の兵士・久蔵(大西信満)が帰還する。彼は天皇陛下から勲章をいただき、村人からは「軍神」とたたえられ新聞にも載る程の名誉の負傷で帰還したのだが、妻・シゲ子(寺島しのぶ)は彼の姿を見て仰天してしまう。なんと四肢が切断され、声帯も耳も損傷しており、顔面の半分くらいは焼けただれていたのだ。軍神の妻としてシゲ子は精一杯の介護を周囲から期待されていることを感じていたが、困惑もしていた。戦況が悪化する中、二人の生活は続くが。。。。というお話。

「キャタピラー」というタイトルから、戦車が出てくるのかな、と思っていたのだが、そんなことはなく、実は「キャタピラー」とは「芋虫」を示すのだそうだ。

私は予告編を観ていたので、この映画は久蔵が帰還するところから始まるのかな、と思っていたのだが、実は意外な衝撃的なシーンから始まっている。実はストーリーが進むにつれ、このシーンの重さがわかってくるので、できれば遅刻しないで最初から観ることをお薦めしたい。

久蔵は動けず、しゃべれず、聞きとれず、という状況だが、考えることはできるし、確かに生きている。とはいえ、働くことなんかできない。親族は「こんな体になって返されてもなあ」と困ってしまい、シゲ子に任せっきりにしてしまう。一応久蔵の弟だけが田畑で取れた作物を差し入れに来てくれるくらいで、まるでシゲ子に押し付けてしまったかのようだ。

シゲ子は軍神の妻といっても日中は田畑に出て農作業をしなければならないし、召集された村人の送別にも出かけなければならないので、一気に大変になってしまった。最初変わり果てた久蔵の姿に嫌悪感を隠せないが、次第に落ち着いてくると懸命に久蔵の世話をするようになる。

原題の「キャタピラー」は文字通りの姿になった久蔵を指しているが、同時に肉体的にも精神的にも身動きできなくなったシゲ子をも指し示しているようだった。

久蔵はそんなシゲ子の苦労を考えたこともないかのように本能むき出しだ。
彼は差し出される食事をがんがん食べつくし、シゲ子の分も食わせろという(まあ、しゃべれないので唸る感じだ)し、「やらせろ」という。そう、食欲と性欲という二大欲望に実に忠実な軍神様なのだ。

シゲ子は久蔵の要求を叶えようとするしかない。

四肢のない夫とのエッチはそれなりに異様だが、昼間だろうと夜だろうとやりまくることになる。なにしろ久蔵は全然動いていないのに食事はちゃんととっているので元気(というのか?)なのだ。。。。

寺島しのぶさんは確かに素晴らしかった。
最初に久蔵と「した」後の彼女の表情を観た時、「ああ、確かにこの女優さんはたくさんの監督から起用したいと思われるんだろうなあ」と納得してしまった。これこそ「妖艶さ」というのだろう。実生活でこの表情を見たら、全てを捨ててのめり込んでしまいそうだ。パンフレットによれば、彼女に最初渡された脚本はすごく薄いものだったそうだけど、凄まじい映画であることは想像できただろう。だが若松監督作品だからこそ彼女はこの過酷な役を受けることにしたのだろう。彼女の選択は銀熊賞という成果に結びつくほど印象的だった。

久蔵役の大西信満さんは前作に出演しているときに若松監督から「口に鉛筆をくわえて書く練習をしておけ」と言われたそうで、本作でその練習の成果を見せてくれる。

軍神とその妻、というのはあくまでも外側から見える関係で、当事者にとっては二人とも人間であることは間違いないが、対等ではない。当時の日本は男尊女卑真っ盛りなので、当然久蔵>シゲ子という確固たる関係が成り立っている。だが、「キャタピラー」な久蔵に対してシゲ子は実は圧倒的有利な立場であることに気がつくと、二人の間に微妙な「揺れ」が起こり始める。その揺れはだんだん大きくなり、やがて衝突となる瞬間がやってくる。

実は久蔵にも、シゲ子にも心の奥に押し込めていた「過去に関する思い」があり、それが音をたててぶつかりあう。

このシーンはかなり壮絶なものだった。
パンフレットによれば、このシーンにはほとんど演出がなく、寺島しのぶさんと大西信満さんに任されていたそうだ。その期待に二人は極限まで応えてみせた。二人の感情の大きな波はぶつかり、飲み込もうとし、逃げようとし、そして。。。。?

私達は「ある事実」を知っている、と観ながら、ふと思っていた。

やがて「その時」が訪れ、衝撃的な展開がやってくる。

若松監督はこの映画に一見単純そうな論理的なストーリーを用意した。
だがその中にはかなり複雑な「仕掛け」を隠していたと思う。

パンフレットを読むと、若松監督はこの映画の中に「反戦への思い」を込めたことがわかる。勿論その主張は映画の中で明確に提示されていた。だが、この映画は単純に「戦争の悲惨さ」だけを述べただけではないようだった。そこにこの監督の仕掛けがあったと思うのだ。その仕掛けをどう捉えるかでこの映画の評価は大きく分かれることだろう。何故ならこの仕掛けの捉え方によっては、この映画でのテーマの扱い方が中途半端に見えてくるだろうと思うからだ。

エンディングでは元ちとせさんの「死んだ女の子」が流れ、そして最後に「あるシーン」が出てくる。

重たい映画だ。だが観ておいた方がよい映画にも思えたのは私だけだろうか?

ちなみに地元ではこの映画は1300円で観ることができた。これは映画館の会員割引料金よりも安い。パンフレットは1000円(確か前作よりは安い)と高額ではあるけれど、合計2300円という価格は通常の映画よりは少し安いです。パンフレットには様々な情報が掲載されているので、特に私のような戦争を知らない世代には「買い」です。