温泉街と旧鉱山の共存・・・尾花沢銀山を中心に一寸だけ語る、、、(若干、常磐湯本と比較)更新版 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

温泉街と旧鉱山の共存・・・尾花沢銀山を中心に一寸だけ語る、、、(若干、常磐湯本と比較)更新版

銀山温泉中心街

写真①-1

尾花沢銀山地形図

1/5万地形図「薬莱山」





銀山(ぎんざん)温泉街・・・・・・



【山形県尾花沢(おばなざわ)市銀山新畑】といえば、

「大正ロマン漂う山峡の湯」として、人気観光地の1つである。


かつて、この温泉街と共存していた延沢(のべさわ)銀山は、

江戸時代初期には初代山形藩主・最上(もがみ)氏の

重臣である延沢氏(2万7千石)が地方(じかた)知行方式で経営。


その後の最上氏改易により、

新たな山形藩主の鳥居氏に支配される。


すなわち、

銀山温泉の原点は、

山奥の鉱夫達が利用していた

鉱山町の小さな温泉場であったと思われる。




尾花沢銀山589

写真①-2

尾花沢銀山584

写真①-3



写真①:銀山温泉中心街

(白抜き表示の写真番号は、上掲地形図中の番号に一致させています)





さて、

繁栄の絶頂期であった

寛永11年(1634)に

延沢銀山は幕府直轄(公儀山)となり、

翌年には留山(一時閉山)となる。


5年後に再開され「二番盛り」を迎えるが、

新鉱脈を求める努力も報われず、

浸水・湧水・落盤などで徐々に衰退。


人口も最盛期の1万5千人前後から

正徳2年(1712)には僅か271人に減少。


かつての銀山稼業業者のほとんどは他所に転移し、

残る者は銀山温泉宿として営業の転換を計る者に限られた。





尾花沢銀山608

写真②


写真②:現在の「銀坑跡」

(白抜き表示の写真番号は、上掲地形図中の番号に一致させています)





ちなみに、

郷土本(注)によると、

銀山町の繁華街は

「新町の御屋敷街・温泉町の本町

それに遊郭街の傾城町で、

遊郭街へは

御屋敷街から銀山川に鉄の橋をかけて通路にした」

とあり、

元禄2年(1689)の絵図より

ある程度は、

現在の場所との比較が可能だ

(絵図によると「本町」は、銀山川西岸に存在

       ・・・上記掲載地形図中①付近)。







尾花沢銀山610

写真③



↑写真③:「銀坑跡」~上ノ畑集落にかけて

       *地形図中の地目は「水田」ですが、

         実際には「荒地」が一面に拡がっています。

(白抜き表示の写真番号は、上掲地形図中の番号に一致させています)






但し、

他の銀山、

例えば秋田県の院内(いんない)銀山と同様、

鉱山町の消滅速度は非常に早く、

現在(今日において)

かつての歴史的町場の特定は困難である。







尾花沢銀山625

写真④-1

尾花沢銀山624

写真④-2



↑写真④:上ノ畑集落(跡)・・・・・

       *現在では、この集落には人家はありません。

          ↓

         誰も住んでいない「消滅集落」となっています
(白抜き表示の写真番号は、上掲地形図中の番号に一致させています)






ただ、

ひとことだけ言える事は、

常磐湯本(福島県いわき市)のように、

もし延沢銀山が近代まで続いていたならば、

坑内の熱湧水処理の問題、

および源泉枯渇対策としての組合方式による強制送湯という問題が浮上するはずである。



現在の銀山温泉は、

宿の浴衣姿で

300年前に閉山した大廃坑内を一巡できる

非常に珍しい観光資源に恵まれた環境にある。


だが、

他の地方(例えば福島県いわき市のようなところ)では

「温泉街と旧鉱山の共存」は難題を抱えているのが現状である。





【注】

1:参考文献

  「尾花沢の歴史と文化 第2号」

      (尾花沢市地域文化振興会、1986年)

2:掲載写真について

  今回記事に掲載した写真は、

  すべて、本ブログ管理者が自ら現地へ出向き撮影したものである。