「石牟礼道子 はにかみの国」と「砂木 ザ・ブーンン」 | 原(ウル)に降りていく

 

『一匹の尺取り虫が 歩道橋のてっぺんで

瑠璃光億年の夕刻に うなじを傾け

前世をおもいだいして呟くには

おや 潮の香りだよ

とおいねえ あそこは でも

このぶんじゃあ 町にゃ赤子が

二、三千人生まれるよ』

 

「石牟礼 道子 はにかみの国  ―尺取り虫―」P-10~P-11より引用(注記1)

 

 

石牟礼道子さんは熊本出身の作家で、『苦海浄土』という水俣病を主題にとった著作で著名な方です。ぼくはどうも個人的に、秋田出身の詩人、砂木さんと彼女をいつもダブらせて考えてしまうんです。石牟礼さんも詩歌を中心として活躍されておられますが、砂木さんというネットを主たる活動の場にされている詩人を忘れることができないのです。

 

砂木さんの代表作は「ザ・ブーンン」(注記2)シリーズにあるのではないか、と考えているのです。

非常に多作の作家なので、一部をとって代表作とすることはできないでしょうが、少し引用してみましょうか。

 

「ザ・ブーンン」

 

『旅にでたけれど旅って何さ

ここはどこかな ねえ
サンダル船長さん 調子はどうだい

うん 段々 体が重くなってる
海水がしみこんでるのかなあ
沈んじゃうのかな

えー それは困るよ 船長さん
岩の故郷は遠いんだ
風さん 下から舞い上がらせてよ

何を言ってるんだか 海は笑った
船長さん 沈んだって 私の中さ
岩のかけらさん もともとは
どこからか集まって あそこに居ただけ
故郷なら すべて故郷さ

だがね 海よ
風は言った

かたまっていた間にみた事聞いた事が
かけらさんの すべてなんだよ
散らばったら寂しいだろう

旅なら散らばるのが出発じゃないか
岩は旅に出たいと言った
かけらに夢をたくしたんだ
今頃は信じている ひたすらさ

沈んだらそこが我が家
そうしなよ かけらさん』

 

これを皆さんはどう読まれるでしょうか。

冒頭、サンダルの船長さんに、詩の中に登場しない「話者(語り手)」が話しかける場面からこの詩は始まります。

 

『旅に出たけど 旅って何さ』

 

そして、擬人化された「海」や「風」がサンダルの船長さんに話しかけることによって、物語的な要素に伴いつつ、とてもシュールな設定によって、この詩は立ち上がってゆくのですが、これは中々の、奇怪な空想力といってよいでしょう。ぼくが石牟礼さんとの共通項を見出すのはその無垢さ。世界に対する純真な想像力です。

 

石牟礼さんの尺取り虫は、歩道橋のてっぺんでうなじを傾けながら、こう呟きます。

 

『とおいねえ あそこは でも このぶんじゃあ 町にゃ赤子が二、三千人生まれるよ』

 

砂木さんの岩のかけらは、こう、みんな宣言します。

 

『旅なら散らばるのが出発じゃないか 岩は旅に出たいと言った
かけらに夢をたくしたんだ 今頃は信じている ひたすらさ』

 

二人の詩想に共通する事柄は、遠い未来を見渡し、そしてその果てしない地平に、そこに、希望を見出す、という姿勢です。これが擬人化された風物や生物に託されて語られてゆく。人間という存在が、自然の中に溶け込み、そこにはもはや、生と死を超えた存在が擬人化されているのです。二人の詩の中から聞こえてくる「声」。それは不思議と人間でもなければ、動物でもなく、ましてや風や海でもない。もっと他の何かが語らせているような、そういう「存在者」を感じさせるような詩編として描かれているのです。

 

 

注記1:「はにかみの国 石牟礼道子全詩集」

     石牟礼道子(著) 石風社 2002年8月10日発行 169P

 

注記2:砂木作品集/現代詩フォーラム

     http://po-m.com/forum/listbyname.php?start=240&encnm=%E7%A0%82%E6%9C%A8&fwd=on

    「ザ・ブーンン」砂木作

     http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=161571&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25E7%25A0%2582%25E6%259C%25A8