【大阪】「国政参政権は本国でというのが世界の潮流。在日韓国人が日本にいる歴史性を理解してもらいたい」大阪市立大・朴教授[07/05


Watch!:在日韓国人の本国参政権 交錯する期待と不安 /大阪

◇日本での地方参政権に影響--「行使は世界の潮流」

これまであらゆる選挙を傍観するだけだった在日韓国人たちが、3年後に迫る「1票の行使」への期待に胸を膨らませている。今年2月に韓国の公選法改正で、海外居住の国民に本国の国政選挙権が与えられたためだ。府内の有権者(19歳以上)は推定10万人。「歴史的な一歩」と喜ぶ一方、「悲願」とされる日本での地方参政権獲得への影響などさまざまな懸念の声も聞かれる。

■勝ち取った権利
「僕の手で大統領を選べると思うとドキドキします」。6月に大阪市内であった韓国人の参政権を考えるシンポジウム。パネリストの一人、林範夫(イムボンブ)弁護士は、笑顔を見せた。07年6月、韓国憲法裁判所は、在日韓国人らの2度目の訴えを認め、在外国民に国政選挙権がないのは違憲と判断、法改正を命じた。

林弁護士は「最初の敗訴理由だった『納税、徴兵の義務を果たしていない』点について、その対価でなく、生まれながら当然に与えられた権利と判断し、感動した」と解説した。95年から運動を続ける一人で、シンポを主催した「在日韓国人本国参政権連絡会議」の金信〓(キムシニョン)議長代理は「祖国との新しい関係のスタート。在日社会に広く周知し、投票率を高めたい」と話す。

■山積する問題
対象は、大統領選と国会議員選の比例区で、同選挙の地域区や地方選、国民・住民投票は外された。選挙人登録と投票は、領事館へ本人が直接出向かなければならず、郵便投票は認められていない。さらに、本国の地域・学閥・支持政党対立が日本に持ち込まれることなどへの懸念も指摘されている。

だが、シンポでは前向きな意見が多かった。大阪市立大大学院の朴一(パクイル)教授は「私たちの1票を武器に、在日コリアンの地位改善を要求できる。比例区なら在日から代表を送り込める力もある」と強調。梁官洙(ヤングァンス)・大阪経法大客員教授も「人間の尊厳を維持し、発展させる基本的な権利。韓国の政治を動かして地方参政権獲得を訴えることもできる。大事に生かしていかなければならない」と述べた。

■地方参政権の行方
在日本大韓民国民団(民団)が旗を振り、「生活実態に照らし、地域住民として認知を」と主張する永住外国人の地方自治体への参政権。民団の調査では、既に全国の自治体議会の半数以上が政府に立法化を求める意見書を採択している。

しかし、本国参政権獲得に伴い、「韓国で投票できるのだから、日本の政治に口を出すな」との声が強まるとの危機感もある。現に「内政干渉だ」「選挙権が欲しければ日本国籍を取得すればいい」--など“嫌韓流”派の反発は根強く、日本の国会議員も賛否は分かれる。

朴教授は「『国政参政権は本国で、地方参政権は居住地で行使する』というのが世界の潮流で、特別な要求ではない。私たちがここにいる歴史性を日本の人に正しく理解してもらいたい」と訴える。

毎日新聞 2009年7月5日 地方版
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090705ddlk27040204000c.html

関連スレ
【韓国】李大統領「参政権に関する話は世界のすう勢。日本もこれに合わせていくのではないか」民団幹部と懇談★2[06/28]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1246200481/
【国内】都内で永住外国人への地方参政権を求める集会、在日韓国人中心に1000人参加-民主党・新党日本の副代表なども[06/03]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244015589/


アメリカ人が見た戦後の在日朝鮮人
戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。 数においては大いに減ったもの、朝鮮人は依然として口喧しい、感情的・徒労的集団である。彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとはせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は一般に日本の法律は彼らに適用され得ないものとしてアメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
 1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で 実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。
ハーバード大学教授 エドワード・ワーグナー(朝鮮史)
大日本史番外編朝鮮の巻
http://members.xoom.virgilio.it/alice275193/

1948年4月3日に起こった済州島四・三事件では、少なくとも7万人が殺害されたとされ、それから逃れる為に日本に渡って来た在日韓国・朝鮮人も多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6#.E6.AD.B4.E5.8F.B2


直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。
彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、 その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E6%B4%A5%E9%A7%85%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=26097592


うちのじいちゃんが言うには、戦争が起こる前から在日朝鮮人の犯罪は多かったらしい。
8月15日を境に、奴らは戦勝国のごとく、略奪や強姦、放火を繰り返していったという。

「幼なじみのゲンさん(親切で人思いの人だった)は、駅の近くに住んでいた。
終戦後、家の修理や片づけをしている最中に、奴らは集団でやってきた。
家に入ってくるなり大声を上げて、目の前で家に火を放った。
ゲンさんは、「おどりゃー、なんしょんなら!」と叫びながら、バケツの水でその火を消そうとすると、奴らは数人がかりで押さえ込み、 そばにあった縄でそのまま柱に縛り付けた。
奴らは安全な場所に離れて、ゲンさんが叫びながら生きたまま焼かれる姿を笑いながら見ていたという。
その後、奴らはゲンさんから奪ったその土地にバラックを建て、終戦直後不足していたたばこや、密造酒、在日朝鮮人の仲間が略奪した食料などを売っていたらしい。
現在、その場所は、大きなパチンコ店になっており、焼肉店が並ぶ。

http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1246797687/


データベース『世界と日本』
日本政治・国際関係データベース
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室

[文書名] 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話

[場所] 
[年月日] 1965年12月18日
[出典] 日本外交主要文書・年表(2),629-630頁.「大韓民国外交年表 附主要文献」,1965年,298-300頁.
[備考] 翻訳 玄大松
[全文]

大統領談話文{前6文字下線}


(韓日協定批准書交換に際して)

 親愛なる国民の皆さん!

 今日ソウルでは,韓日両国の全権代表の間で韓日協定批准書が正式に交換されました。

 14年という長い歳月にわたり、その処理過程において,相当の陣痛を経ねばならなかったこの問題がとうとう解決され,ここに両国間に批准書が交換されることに至ったことで,私はいくつかの所信を明らかにし,国民の皆さんの協調を得ようと思います。

 国家と国家との間の関係も,個人と個人との間の関係と全く同じく,利害関係によって互いに離合集散するのが歴史における一つの鉄則だともいえます。

 時代の大勢と国際情勢の変動は,当事国の望むと望まないとに拘わらず,国家と国家との間に驚くべき変化をもたらしているのであります。

 昨日の友邦が今日の敵国になるかと思えば,昨日の敵国が今日の盟邦になったりします。

 もっとも最近の例をとりましても,鉄の団結を誇っていたソ連と中共は互いに憎悪し,舌戦を戦わす対立国家になりつつあるし,長い間仇敵関係にあったフランスと西独は切っても切れない友邦へと結ばれており,相互の利益のためにお互いに協調していっております。

 かつて36年間のわが国と日本との関係についていうならば,それは明らかに仇敵関係だったといえます。

 しかしそれは,あくまでも過去であります。それはわれわれの現在でもなければ,また未来がそうでないであろうことはあらためていう必要さえないことであります。

 今日,国際的連関を離れたわれわれだけの独存とか繁栄はあり得ないことであります。

 とくに好戦的な中共の使嗾を受けて,いつ再侵してくるかも知れない北傀と対峙しているわれわれの場合,一国でもより多くを友邦とし,相互協力関係を結んで,そうした国際協力の基調の上から祖国の近代化と自立経済建設に拍車を加えて,われわれの力で国土を統一することができる自主的力量を育てねばならないことは,一つの歴史的当為だといっても過言ではありません。

 親愛なる自由世界の市民,とくに日本市民の皆さん!

 今日韓日協定の批准書が交換されたことに際して,韓国民は自由世界の大義とアジア反共態勢の整備のために,万難を排してこれを受け入れることを私は闡明にしようと思います。

 しかし,韓国のこうした決断が真に自由世界のためのものであり,極東反共態勢の強化のためになるためには,今やその鍵は日本国政府と国民の友好に満ちた善隣意識に立脚した韓日両国相互協力体制と反共態勢の強化にあるといわざるを得ません。

 私は,日本国政府と国民のこうした国際的信義を信じるとともに,また自由世界の友情にあふれる協調が継続されることを確信しないわけにはいきません。

 親愛なる自由世界市民の皆さん,

 韓国と日本は今や新しいアジアの歴史を創造する一歩を歩み出しました。侵略ではなく協力が,また一方的なもので相互利益が,そして結局は一つになろうとしている世界の中で,まずわれわれだけでも互いに信じ,助け合いながら純粋な友邦として新しいアジアの歴史を創造しようとするものです。

 私は韓日両国のこうした新しい出発に,自由世界の緊密な協調のあることを期待してやみません。

 次に私は,在日僑胞に対して,一言お願いをしようかと思います。

 親愛なる在日僑胞の皆さん!

 現在60万人以上と推算されている在日同胞のこれまでの苦労がどれくらいつらかったことかを,私は誰よりもよく知っています。

 在日僑胞のその苦労の原因をたどってみると,ひとえにそれは本国政府の責任となる他ありません。

 したがって,これまでに在日僑胞の一部が共産主義者の使嗾に駆り立てられその系列に加担するようになったのも,実は大部分本国政府が在日同胞をより暖く,より徹底して保護できなかった責任であるといえます。

 これより本国政府は皆さまの安全と自由について,より積極的に努力して可能な最大限に皆様の生活を保護するつもりであります。

 これとあわせて私は,一時的な過誤で朝鮮総連系に加担した同胞たちの一切の前過を不問に付して,本国政府の保護下に立ち戻ることを希望します。

 政府は最大限に彼らを暖く迎え,一つの血筋を引いた同胞として,韓国民として保護するでありましょう。

 そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを希望してやみません。

 これとともに私は,これまで分別なく故国をすてて日本に密入国しようとして抑留され,祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。

 再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,訴えてやみません。

 親愛なる国民の皆さん!

 われわれは今,新しい民族史の門出に立っています。この新しい民族史は外には互恵平等の位置から胸襟をひらいて世界の舞台に進出し,民族の栄光を占め,内にはわれわれの至上課題である祖国の近代化作業を一日も早く成就することにより,自立と繁栄に浴することができる統一された福祉国家を建設するものでなければなりません。

 国民の皆さん!

 われわれは発展する民族としての矜持と自信と勇気をもって,明日の栄光のために一致団結して前進しましょう。

1965年12月18日

大統領 朴 正 煕

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html



>林弁護士は「最初の敗訴理由だった『納税、徴兵の義務を果たしていない』点について、その対価でなく、生まれながら当然に与えられた権利と判断し、感動した」と解説した。

アナタの言う通り、納税の対価ではなく生まれながら当然与えられた権利だから、同じ理由で日本の選挙権が無いのも理解出来ますね。


>朴教授は「『国政参政権は本国で、地方参政権は居住地で行使する』というのが世界の潮流で、特別な要求ではない。私たちがここにいる歴史性を日本の人に正しく理解してもらいたい」と訴える。


そんな潮流は朴の想像の中の話で、自分の都合のいいように話を作っているだけ。
仮にそれが事実として、世界の潮流とやらを日本に当てはめなきゃならない理由にはならない。

あくまでも日本の都合で判断されるものだ。


>在日韓国人が日本にいる歴史性を理解してもらいたい」
>大阪市立大・朴教授


歴史性を理解したら、到底在日に参政権なんて地方といえどくれてやるなんてことにはならないぞ。



李承晩ラインによる韓国の非道


1952年1月18日、突如、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島(独島)をその中に含めた。

何故、1月18日であったのか?


 サンフランシスコ講和条約が発効するのは4月であり、それ以前の日本は身動きが取れない状態であったから韓国の竹島占領に対して邪魔もできない。


2月28日、日韓の国交正常化交渉の本会議が始まる一ヶ月ほど前に韓国側として、国交正常化交渉を自国に有利に進めるという側面から、竹島問題を引き出してきたのである。李承晩ラインとそれに引き続いて発生する竹島問題に対して、日本側はどれだけの準備をし、あるいは、自覚していたのかというと、ほとんど認識していなかったのではなかろうか。

 問題が起こってから騒ぎ立てるというのは、日本の一つの外交パターンだが、韓国側としては、実は周到な準備をして日韓の国交正常化に臨んでいたのである。すなわち日本側の譲歩を引き出すため、国交正常化交渉の外交カードとして使ったのが、竹島問題であり、李承晩ラインであったからだ。


 李承晩ラインが登場する背景には、サンフランシスコ講和条約があった。このサンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に調印され、52年の4月28日に発効している。問題はその第二条の(a)項にあった。草案の段階では「鬱陵島・竹島・済州島」が日本の領土から離れて、朝鮮側に返還される領土・島嶼と規定されていた。それには「連合国軍総司令部訓令第677号」というのがあって、そのとき連合国軍総司令部が竹島を韓国側として規定していたからである。

 ところが講和条約の最終案では、日本から除かれる地域が「済州島・巨文島・鬱陵島」とされ、同条約によって竹島は朝鮮領から除外されていた。草案から最終案が決定する際に、日本側とアメリカとの間で交渉が行なわれ、竹島は日本領土として確定したからである。


 だが、これは韓国政府にとっては深刻な問題であった。講和条約が発効すれば、竹島は日本領となってしまい、竹島を韓国固有の領土と信ずる韓国側は、危機感をもったのである。そこでサンフランシスコ講和条約が発効する以前に、自分達で自国領土として宣言し、翌月からはじまる日韓国交正常化交渉の外交手段としたのである。


 その姿勢は、韓国側が「李承晩ライン」を「平和線」つまり平和の線とよぶことにも現れている。「平和線」とは、日本の漁民が韓国の領海を犯して自国の資源を乱獲しているので、それをやめさせるための線だから平和線なのだという。それに韓国側では、竹島は歴史的にも自国のものとする認識を李承晩大統領自身がもっており、当時の韓国の人たちにも、竹島を韓国固有の領土とする歴史認識が形成されていた。

その歴史認識に決定的な役割を果たしていたのが、崔南善である。


 彼は日本の統治時代、朝鮮総督府の歴史編纂官で、日本にもよく知られていた歴史学者だが、その崔南善のもとを、韓国政府の兪鎮午という、後に日韓の国交正常化交渉の際に第五次の韓国側代表となる人物が訪問し、竹島が歴史的に朝鮮領であるとして確信できる確かな論拠を教えてもらっていた。兪鎮午はそれを李承晩大統領に報告し、韓国政府は李承晩ラインを引いて、竹島を自国領として宣言したのである。

 しかし、「李承晩ライン」は、一方的に公海上に引いた線である。公海上では当然、日本の漁民たちは漁業を行なっているわけだから、結果として日本漁船が拿捕されることになった。「平和線」という名称と目的とは裏腹に、戦後の日韓関係を憎悪と不信に駆り立てる導火線となった。1952年2月15日から始まった日韓の正常化交渉の最中にも、韓国政府は「李承晩ライン」に依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕しつづけ、交渉にも重大な影響を与えることになったのである。


 この「李承晩ライン」については、宣言の直後からアメリカ、イギリス、中華民国からも違法性が指摘された。のちにアメリカのハーター国務長官は「韓国が日本漁船を公海で捕獲し、船を押収、漁夫に体刑を課していることが日韓関係を著しく悪化させている」として、韓国政府の措置に憂慮を示している。(1960年3月17日付『朝日新聞夕刊』)


韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したのか?


 3,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、その過程で四十四名の方が死傷してしまった。1953年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺されるという事件も発生している。

 1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または50万ウォン以下の罰金」が科せられ、「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。つまり、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、国際法および国内法に照らしても、不当だったのである。


日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。


 おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。韓国側に拉致された日本の漁民は岸首相のお膝元である山口県や中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。


そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。


「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。

公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい! あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに利用した。



 日韓基本条約の交渉過程を見れば、当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 - 衆 - 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和40年10月28日発言者232を参照


知っていますか、日本の島 自由国民社 下条正男他著
下條正男氏講演 「領土問題の現状と課題」
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html



韓国国旗1951年7月19日 韓国大使(ヤン)から国務長官への書簡。

一、大韓民国政府は、第二条a項の「放棄する」という語を、「朝鮮ならびに済州島、巨文鳥、欝陸島、ドク島およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一郡であった島々に対するすべての権利、権原および請求権を、一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」と置き換えるよう要望する。



アメリカ国旗1951年8月10日 国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答

草案第2条(a)を日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。

合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思いません。

ドク島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。


■竹島問題と在日朝鮮人特権の歴史年表をよく読んで欲しい

■1949年01月:李承晩、政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。(この要求はGHQにより「根拠がない」と却下。日本も拒否。)
1949年02月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押し、または対馬上陸作戦を画策したものと推察)
1949年04月:国連安保理、韓国の国連加入案を否決
1949年05月:米軍から李承晩政権への武器供与を停止
1949年06月:米、韓国撤退完了を発表
1950年01月:米韓軍事援助相互協定調印。が、米は韓国側からの軍事支援要求を拒否。
1950年04月:韓国、空前の大インフレ。年間200%を達成。
■1950年6月 朝鮮戦争始まる
   ・北朝鮮怒濤の南下、北による統一直前に至る。
   日本に大量の韓国人避難民が到着
■同年7月 GHQレッドパージを発動、日本占領方針を転換。
■同年9月 国連軍出動
(安保理事会をソ連が欠席し、拒否権を行使しなかったので国連軍が成立)
   ・国連軍怒濤の北上、あと少しで南による統一寸前。
   GHQの命令で、旧日本海軍の残存部隊、国連軍に協力し朝鮮戦争で機雷掃海を行う
■同年11月 中国共産党 中国義勇軍で参戦。
   ・38度線付近まで押し返され、戦線膠着。

■1951年7月 休戦会談開始
■同年9月 日本と連合国はサンフランシスコ講和条約調印、
 1952年4月に日本が独立回復することが決まる。

■1952年1月 
 朝鮮戦争のさなか、国連軍の後方基地と機雷掃海を引き受けていた日本に対し、韓国政府は、日本が独立回復する前に、李ラインを宣言。竹島を電撃占領
 多くの日本漁船が攻撃され死傷者多数・拿捕された。
 韓国が拿捕した日本船籍の船舶数:328隻(行方不明併せると340隻)
 抑留された日本人の数:3929人
 拿捕の過程での死傷者数:44人(殆どが射殺と溺死)
 日本は抗議するものの、GHQ占領下で涙を飲む。
(在日特権は3929人の人質と引き換えに日本刑務所にいた400名弱に付与された、これ以外は全て詐欺による取得と言える
同年4月28日 ようやく日本独立を回復

■1953年7月 朝鮮戦争、休戦協定成立。 (中国と北朝鮮軍事同盟を結ぶ)
 ・避難民は帰国せず、日本に居着き、いつの頃からか、強制連行されたとウソをまき散らす
 竹島占領は、まさに火事場泥棒だった。
■日韓基本条約締結、賠償(身代金)3億ドル(当時のレート支払済み)日本刑務所の在日朝鮮人に特権付与と引き換えに日本漁民開放
(この3億ドルはボスコなど企業設立に使用され、日本にかなり還流した。元々韓国は農業主体で、工業は無かったのである)
■韓国の領土侵犯と朝鮮戦争(停戦中)これらの事件によりGHQの方針が変わり日本の軍備が成された。
警察予備隊>自衛隊の誕生である。日本と朝鮮半島はアジアのスイスとなる国連計画だったが、朝鮮人の醜い争いが全てを変えてしまい今に至る。朝鮮半島は戦後ずっと不安定な紛争地帯のままだ。

http://maokapostamt.jugem.jp/


i


李承晩ライン(李ライン)
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。日本側はこのラインを認めず、結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による日本漁船の拿捕が続いた。


李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人

死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
************************************************************


中日ニュース(ライブラリー映像)「韓国から抑留漁夫帰る」

昭和33年の記事212号
http://home.att.ne.jp/theta/chunichieiga/212.jpg


李承晩ライン 「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房


 日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。


 李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家の基本的政策、体質となった。韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。このような韓国の情勢が日本人に快いはずはない。もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では"悪名高い李承晩ライン"がある。

 

 日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。


 翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。

1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。


 日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。


 日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。

http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm


「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日


李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ十人の船員は海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。


 日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。李ラインを越したという理由だけで、これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。


 そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだが、それは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。

日本政府はこのラインを認めていないが、過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。


九月(1963年)にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。韓国漁民の間に、日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。


 漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインである。公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=24211&fid=24211&thread=1000000&idx=1&page=3&tname=exc_board_58&number=20249


日本の漁民を人質にして在日特権(永住権)を獲得した韓国


・1952年、当時の大統領李承晩は国際法のルールを無視し、
 「李承晩ライン」を勝手に引き、そして李承晩ライン内にある竹島を韓国領土だと主張してこれを占領。

・竹島周辺で操業をしていた漁船328隻が拿捕され、3929人もの漁師が抑留。
 その期間は、1965年の李承晩ライン廃止まで13年間。拿捕時に銃撃や追突を受け、44人の死傷者を出す。

・拿捕した漁師を人質に取り、「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」の交渉を有利に進める。

・13年後、1965年、日本と韓国は在日の扱いをどうするかの「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」が結ばれ、
 その結果、在日韓国人に無条件で子々孫々永住が出来る資格が与えられる。

 つまり、在日コリアンが日本にいられる正当な理由はない。

 ましてや、反日に凝り固まって恩を仇で返し続ける日本に居座り続ける在日早く日本からでていきなさい。


配慮しても配慮しても、どれ程意を尽くしても、満たされるほど不満を抱く在日韓国人。

感謝してしかるべきなのに、罵詈雑言の雨あられ。

在日はもう、日本から排除されるべきである。


■在日韓国人 民団の綱領■
※ 大韓民国の国是を尊守する。
※ 在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を尊守します。
http://www.mindan.org/min/min_reki31.php


ここまで生活レベルを上げてもらいながら、
日本の敗戦が決まると豹変し、暴虐の限りを尽くしたチョン。
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200501100000/
http://www12.tok2.com/home/doronpa/

ほぼ同様の経緯だが50年たっても恩を忘れていなかったパラオ。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010503.html
http://www.sarago.co.jp/nfhtm/pw.html
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210091.htm

     ,,.---v―--、_       日本人はな、お互い様やねん。
   ,.イ" | / / / /~`'''ー-、  相手に譲ってもろたら今度は自分が譲るねん。
  //~`ヾ、;;;;ソ'''''''ヾ、   ,.ヽ ヽ そうやって上手い事回っとったがな・・・
 /:,:'       ...  ゞ 彡 彡、ノ)
 !/  ~`ー'",..- ...   〉     !( 『あの人ら』は違う。
i   ̄~`        !  彡  |ノ 一回譲ったらツケ込んで来て、
,i ,.- 、 ゝ " '" ~ ~`  ヾ ,,--、 |  こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
/         _    ヾ"r∂|;! それでも『あの人ら』は平気なんや。
ヾ` '⌒` ;::   "~ ~` 彡  r ノ/  カドたてんとことおもて譲り合うのは、
i    ノ           _,,.:'   日本人同士だけにしとき。
ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : :   ,i /    そうせんと『あの人ら』につけこまれて、
 ヽ、 ,. :: ::  ヽ      ノ:|ラ:)`ヽ、『ひさしを貸して母屋を盗られて』
   ヽ、`''''"""''''" '  ,,..-'" //   \日本がのうなってしまうからな