『日高恒太朗「終戦60 年秘話-後の「韓国大使」もいた沖縄「7 人の脱走日本兵」』(前後編)

週刊新潮 「2005 年9 月1 日号」 「2005 年8月25 日号」

昭和20 年4 月、米軍は遂に沖縄本島に上陸した。
約3 ヵ月後、守備部隊である陸軍第32 軍は壊滅状態となり、司令官の牛島満中将は自決、20 万人余りとされる犠牲者を出した。
そんな激戦のさ中、小船で密かに離島へ逃げ、島の女を愛人にして遊芸に興じていた「脱走兵」グループがいた。
その隊長は、後に韓国の大使にまで出世したエリート将校であった。
(中略)
沖縄戦の早い時期に米軍の手に落ちた伊江島、そして6 月3 日に砲艦射撃を受け米軍が上陸した伊平屋島。両島に挟まれた伊是名島は、沖縄本島や各離島で起きた「玉砕」「集団自決」などの悲劇を免れた「イクサのなかった島」といわれていた。
その伊是名島にサバニを漕いで渡ってきた逃亡兵らが、この島にタブーを作ったという見方がある。
彼らは島民にスパイ容疑をかけ、虐殺をしていたというのだ。
この事実は、昭和49 年に発刊された『沖縄県史』(沖縄戦史録2)の調査団によって明るみに出た。
(中略)
北隣の伊平屋島が指呼の間に見える内花集落は、博労をしていた喜納政昭(42)=当時=殺害の場と言い伝えられている。彼はサバニを自在に操って島々を渡り歩いていたことからスパイの嫌疑をかけられたのだ。
犠牲者の弟である喜納政和(72)は眉毛を逆立てて、丸い目を剥いて言う。
「あんたネ、来るのが60年遅いサ。あの連中は脱走兵の癖に、しかも戦争が終わっているのに兄を殺し、奄美から来た子供を殺し、アメリカ兵も2人か3人殺している。60年間のうのうと軍人恩給を貰って、今はもう死んでしまったかという時期だろうが、こんなロクでもない兵隊に国はオレたちの税金をずっと払い続けてきたんだ。今更、何を喋っても仕方ないだろ」
(中略)
処刑の日、内花海岸には地元防衛隊、要人たちが集まっていた。喜納政昭はこの浜で、待ち受けていた逃亡兵の隊長である平山大尉に射殺されたのだという。
脱走兵たちは島人になりすます為、偽名を使っていた。
(中略)
60 年後の現在、彼らの偽名と階級を憶えている人はほとんどいないが、人々の記憶に鮮やかに残り、伝説のように伝えられているのが、「ゼンタロウ」(申応均が島で使った仮名)たちの優雅な日々である。
(中略)
先の喜納政和は、「あいつらは虐殺しただけじゃない」と怨念を込めて言う。
事実、逃亡兵の中には、既婚者でありながら祝言を挙げたり、17 歳の娘に子供を孕ませたまま、島から逃げた者もいたのである。
(中略)
申應均として韓国で功なり名遂げた彼だが、山梨県に住む平山隊の元戦砲隊第一分隊長(82)の意見は手厳しい。
「平山さんは優しい人物ではありましたが、戦後になって、沖縄の小島に逃げて女を捨てたという話などを聞き、軍人としては最低だと思った。昭和20 年4月20 日、平山隊の副長格だった2 人の将校が八重岳で自決しています。一人は予備士官の中尉で、この人は負傷して動けなくなった。“足手まといになりたくないから自決させてくれ”と言って我々の目の前で自決されました。平山さんは私たち124 名の部隊の長だった人です。部下の自決を見ていた隊長が、米兵のいない島に逃げていたとは……卑怯だとしか言いようがない


逃亡し、民間人虐殺まで行った朝鮮人の略歴

申応均(平山勝敏)
日本陸軍士官学校53 期卒業、旧日本陸軍少佐。
沖縄戦に第24 師団砲兵大隊長として参戦。後、韓国軍に入隊、韓国軍砲兵の育ての親。
第1 野戦砲兵司令官、第3 師団長の地位へ。
退役後、駐トルコ、西ドイツ両大使、国防科学研究所長を歴任。

http://resistance333.web.fc2.com/html/japan_korea_merger2.htm


4回の大粛清で日本人妻のほとんどが虐殺された


女を処刑する朝鮮のやり方は局部にに太い火掻き棒を足で蹴り込み、内臓破裂で羞恥と苦痛のうちに絶命させる。赤ん坊、幼児は犬に食わせる。

(「北朝鮮強制収容所」安 明哲 著 双葉社 より) 

なお、日本人妻とは望んで北朝鮮へ行った方ばかりではありません。 樺太に残留した日本人女性を支援する活動をしているという女性が、NHKのラジオで下のようなことを話ていた。

樺太に残留した日本女性は、ほとんどが終戦後レイプや脅迫によって朝鮮人の妻にさせられた女性です。脅迫というのは、自分と結婚しないと、ソ連当局に密告して家族全員を収容所送りにしてやる、というような脅しだったらしい。終戦から2年後ぐらい後に日本の船が日本人を迎えに行ったときは、すでに妊娠していたため帰るのをあきらめたという。

(ZAKZAK 2002/11/21)
http://tmp3.2ch.net/test/read.cgi/asia/1074408531/


「外地での悲惨な経験」

 八月十五・二十二日号「五木寛之 ソ連兵の暴虐と家族の非業の死」を読ませて頂きました。五木氏の体験と同じではありませんが、終戦当時私は八歳。連夜訪れるソ連兵に訳の分からぬまま外へ逃げ出し畑に隠れていました。
 若い女性を1ヶ所に集めて、朝鮮兵が暴行を加えた。そんな事もありました。被害にあわれた人達の気持ちを思うと、語ってはいけないことだと思います。このような出来事を知る人が少ないのはこの所業(せい)でしょう。
http://tmp3.2ch.net/test/read.cgi/asia/1087713985/l50



北朝鮮収容所の中の収容所(拉致粛清所)


①収容所の分類

北朝鮮では、居住地から他地域への移動は、当局の許可が必須であり、一切の自由と人権が認められない奴隷生活の如き状況から、国土全域が、収容所であるといわれております。(収容所列島)特に、管理所に、政治犯として収容される者は、秘密警察により、極秘裏に拉致拘束、連行され、問答無用(裁判など無し)で収容、粛清されることから拉致粛清所と当NPO法人は、呼称することと致しております。(世界初)

この北朝鮮収容所の中の収容所は、
集結所、労働教養所、教化所、管理所(政治犯収容所、拉致粛清所)秘密監獄、労働鍛錬隊、また精神病院である77号予防院 (政治犯収容)招待所 と呼ばれる施設の中にも大韓民国 や海外の国家から拉致した人物用のものや政治犯を収容し、予審を行うためのものが存在する等、様々な強制収容所ないしそれに準ずる施設が存在すると見られる。

被収容者のレベルは、IからIIIまで存在する(Iがもっとも重い)。ただし最も軽いレベルIIIでも、一日に、数百グラムの飼料用穀物と塩が数グラムの配給だけであるため、ネズミを捕らえ、たんぱく質を補給するなどで生き延びるしかないという、家畜同然の待遇と、いわれている。

②管理所(政治犯収容所)
管理所は、政治犯収容所であり、 革命化区域と、永久に出所できない完全統制区域拉致粛清殺人所→当NPO法人の独自名称)に分けられる。                    一日わずかな飼料用トウモロコシと塩水程度のみ配給されることから、どちらに収容されても無事に出所できる確率は非常に低い


多くの管理所は、共和国の秘密警察 である国家安全保衛部 7(農場指導局)の管轄にあたるが、保衛部の他の部署や一般の警察 あたる人民保安省 (旧称:社会安全部)の管轄にあたると見られる管理所も存在する。

いくつかの管理所には1959 から行われた祖国帰国事業 により日本から帰国した在日朝鮮人 日本人妻 が多く収容されている。

これらの収容者のほとんどは、国家安全保衛部によって秘密裏拉致・拘禁れ裁判もなくあるいは形式的な裁判のみで、管理所へ移送される。

一日の労働は12時間、男女の差なく罪状により果樹園・炭鉱・森林伐採・採石などの重労働が課せられる。      

ノルマの果たせない者は、更に重い労働を徹夜で行うか、その場銃殺されることもある。                   また、女性収容者は、秘密警察である国家安全保衛部員から性的虐待を受けることもしばしばある。
収容者は男女を問わず、国家保衛部員の怒りに触れると死に至るまでの、暴力・拷問を受ける。管理所内部では、国家保衛部員の気まぐれによる公開処刑 も頻繁に行われている。

収容者は連座制 である。反動分子 を増やさぬためにという理由で基本的に親子・孫の三代までが収容または僻地への追放処分となる。従兄弟・叔父・叔母までもが収容されることも珍しくはない。ちなみに妊婦 が収容された場合、反動分子の子孫 を絶やすという理由で強制堕胎、または出産後に生きたまま窒息死 殴打 で、殺してしまう。管理所の革命化区域の収容期間は最近、短縮されているといわれております。

不衛生な環境と著しい栄養失調のため収容中に病死、重労働での事故死が、殆どである。

近年は、アメリカ 宇宙衛星 により撮影された北朝鮮全体像と元受刑者・元警備兵の証言より、数十の
の強制収収容所
の位置と名称が確認されている収容所は、粗末なバラックが何棟も並んでいて、鉄条網で囲まれているという状況である。

ちなみに秘密警察 である国家安全保衛部長職、現在空席であり、国外では、中国の東北地方、等でも活動し、スパイの摘発も行っている。政治犯を収容する
の管理業務も行っている。

1973年、
(警察担当省庁)に相当する社会安全部から、
政治犯を専門とする国家政治保衛部が分離され、は、国家政治保衛部を通して、反体制派を粛清し、住民が、反抗できないように、
北朝鮮社会に恐怖感を作り出した。
内務省 金日成

金正日 が、直接この機関を指揮・指導しているものと思われる。国家安全保衛部の主任務は、スパイや反体制派の摘発である。
その後、弾圧の行き過ぎを、金炳夏に負わせて粛清した。
1982年、
国家政治部保衛部から、「政治」の言葉が外され、国家保衛部に改称された。
部長には金炳夏(1973 - 1980年頃)を粛清後、李鎮洙 を任命
したが1987年の李鎮洙死亡以後、部長は任命されていない。
1993
年、国家政治保衛部は、国家安全保衛部に改称された。
李鎮洙死亡以後
、部の実務は、第一副部長のキム・ヨンリョンが担当。
1998
年、キム・ヨンリョン は、金正日から反革命分子のレッ
テルを貼られ自殺した。

http://www.peoplelink.jp/sittuigenin.html


以前、韓国人嫌いの父を酷い人だと思っていたけど、最近ネットを見ていて、正しいのは父なのでは?と思うようになりました。

小学生だった父は終戦を南洋群島でむかえましたが、島には日本人、沖縄人、朝鮮人、台湾人、がいて、
戦争前は朝鮮人は、沖縄人や台湾人に俺たちは、二等国民だと言って、馬鹿にしていたそうです。
平気で人の家の物を盗んだり、それを咎めると証拠を出せ!と、逆切れしたそうです。
でも、日本人や軍人の前ではおとなしくしていたのに、戦争が終わった途端に、
一番えらいのは俺たちだと、日本人や沖縄人、台湾人にいばり散らしていたといいます。
そればかりか、小学校の同級生である日本人や厳しく体罰をした日本人教師をリンチしたりと、酷い事をしたと聞いています。

当時は、日本人が酷い事をしたからそうなったのかと思いましたが、それが彼らの国民性なのだと今は思います。
事大主義ですからね、何でも強いものには巻かれろって事です。
そう言う事を歴史教育として教える事はないですから、彼らの正しい歴史観から外れる事は許せないのだと思います。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2667508.html


週刊文春2002年12月5日号 元総連幹部の告白より

「総連は問題が起こると常に集団行動で圧力をかける。私も支部の人間に連絡網で指示を出し、午前の部と午後の部とに人員を行かせ、 さらにそれと並行して、公衆電話から抗議の電話をかけさせたこと があります。わたしたちはこれを波状攻撃と呼んでいました。」
http://tmp3.2ch.net/test/read.cgi/asia/1087713985/l50


在日コリアンから、未だに一言の謝罪の言葉も無い。償う意思がないのであれば、在日朝鮮人も在日韓国人も日本人被害者に北朝鮮の強制収容所送りにすべきだな。