関東大震災


関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした


死者・行方不明者 : 14万2800人

負傷者 : 10万3733人

避難人数 : 190万人以上

住家全壊 : 12万8266戸

住家半壊 : 12万6233戸

住家焼失 : 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)

その他 : 868戸


本庄事件


地震の数日後、東京の様子は避難民たちの口々から伝えられたが、この時東京でのデマがまだ生きており、埼玉県の本庄町(今の本庄市 )では、朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中仙道をやってくるというデマが流れた。まったく事実無根のデマであったが、町では郡役所の幹部などが県庁からの通達といって消防団等になどに事実として伝え、対策に乗り出すよう指示したとされている。

それから数日が経過した9月4日、警察が保護した朝鮮人たちを乗せたトラックが本庄町を通過し、群馬県に入ろうとした。そのトラックが上里町 (当時の神保原村)を抜けて群馬県の手前で足止めを受けた。その後トラックは群馬県に入らず本庄に引き返し、夕方本庄署にたどり着いた。この時本庄署では地元住民達のデマを収拾するために警察官が動員されており、警察署はほぼ無人の状態であった。

本庄署に着いたトラックを取り囲むように地元の住民達が集まり、その後一斉にトラックの上の朝鮮人達に襲い掛かり、リンチに発展した。警察も人員不足から十分に阻止することができず、この事件で五十から百人程度の朝鮮人が殺されたとされている。また、このリンチに加わったものの多くは執行猶予付の騒擾罪を受けたとされている。(朴慶植/著 未来社「朝鮮人強制連行の記録」)

尚、本庄事件の裁判記録による殺傷行為の部分では (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)

「当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中

一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して犯意継続の上朝鮮人三名を殺害

一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害

一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害

一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)と記録されている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD


>朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中仙道をやってくるというデマが流れ

た。


9月1日 地震発生


9月2日 不逞鮮人が暴徒化


福岡日日新聞 大正12年9月2日号外第四 「帝都無秩序 鮮人横暴」

徒党を組み暴徒、放火、殺人、暴行、略奪、強姦、爆弾・石油を携帯し放ち、水道に毒薬を放ち、 発電所を襲い、列車爆破を企画し、さらには隊を組み日本の一個小隊を全滅させその後一個中隊との戦闘へ突入。


下越新報 大正12年9月3日附録 「上下水道青色毒散布、脱獄強姦掠奪殺人爆弾押収」

小樽新聞 大正12年9月3日号外第一 「隊をなして石油・爆弾使い放火」

小樽新聞 大正12年9月3日号外第三 「鮮人各所暴動検束数千名」

大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外「横浜~王子放火」

荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報 「爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」


新愛知 大正12年9月4日号外「横浜で戦闘開始 日本陸軍一個小隊全滅 発電所襲撃 放火逮捕困難」

新愛知 大正12年9月4日号外「屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」

名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二「浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」

福岡日日新聞 大正12年9月4日号外 「殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」


9月4日 軍隊、自警団などがあらゆる暴虐をはたらく不逞鮮人を射殺・撲殺・検挙

      鮮人の暴徒が各地で知れ渡る。沈静後も流言飛語が飛び交う


小樽新聞 大正12年9月4日号外第一 「爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」

九州日報 大正12年9月4日号外第三 「鮮人捕縛 爆弾其の他押収」


軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ


警視庁、不逞鮮人暴動パニック沈静化及び「不逞鮮人では無い鮮人」保護のため「取締りは完全に遂行した」と急告通達。
しかし「不逞鮮人では無い鮮人」も爆弾、毒薬を疑われる。何回も通報があり、警察出動するも調査により誤通報多数


大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二「鮮人暴挙は完全取締を遂行」

東京日日新聞 大正12年9月8日第一版「流言飛語に対しての通報に呆れる」


9月5日 日本政府が「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定


「不逞鮮人では無い鮮人」たちを習志野に収容。

大阪毎日新聞 大正12年9月5日号外第二「政府の震災対策 鮮人保護」

東京朝日新聞 大正12年9月6日特報第三「鮮人習志野に収容 軍隊不逞鮮人取締で人心安定に向かいつつあり」


「不逞鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実はなきにあらざるも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。」


↓当時の新聞記事は下記のURLからご覧ください。

http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?cmd=read&page=%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2


在日が関東大震災でデマを信じて日本人は大量虐殺したと得意げにいいますが、実は自業自得なのです。

なぜなら、震災で日本人が逃げ惑う中で、朝鮮人は実際に放火・掠奪・殺人・強姦・日本軍一個小隊を壊滅等、あらゆる破壊活動を行ったかあです。人間としては一番やってはいけない火事場泥棒を働いたのです。

いくら、警察が鎮圧したから大丈夫だといったところで信じられるわけが無いのです。

つまり、元はと言えば在日が悪いのです。在日が暴動を起こさなければ報復を受けて殺されることは無かったのです。罪のない日本人が間違えられて殺されることも無かったのです。

加害者が被害者に摩り替わるいつもの手です。

日本人は騙されてはなりません。