パッチギ2 被害妄想編


在日朝鮮人 けんか


在日韓国人が日本の地方参政権を求めています。彼らはどういう人たちなのでしょうか。


コメント覧に在日朝鮮人らしきレス

お前等朝鮮人なめんなよ!!!!!

俺等の親がアホの日本人供にどんだけ差別されたか知らんからそんなこと言えんねん!!!!

日本の警察はそんなこと言わない?

・・・は?もっとひどい事されとったっちゅうねん!!

そういうことぬかすんはもっと朝鮮のこと勉強してから言ってくれませんか~??

糞映画やと????!!!!

お前等が糞じゃ!!!!

http://www.youtube.com/v/YJwgKcTRrqE&hl=ja

お前ら朝鮮人が何をやったのか忘れたのか?
しらばっくれてんじゃねえよ。
お世話になった日本人を裏切って残虐非道な限りを尽くしただろ。
散々恨まれるようなことをしておいて何が差別だ。


面倒を見てあげた朝鮮人孤児に惨殺された日本人一家

私は生粋の韓国人だ。でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか? 日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。ところが,和夫一家殺害事件のように,韓国人は自分たちの間違いを,日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。以下は,和夫夫婦が死んだ日,ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。
 和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの,和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって,乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。

 当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには,朝鮮人の小作人たちから,法の規定以上の小作料を取り立てる,怪しからぬ人々もいたが,ふだんから人情味の厚かった和夫は,小作料を収穫全体の十分の一とし,村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって,やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし,村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,食事の支度はもちろん,自ら慟哭して,悲しみを分かちあうこともあった。このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった。

 また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが,その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し,自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮+人を愛し,日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日,自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。

その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青神は,自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか? 彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。

A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ。

和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け,育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。お前たちが望むなら,帰ってやるわ。

A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら,おれたちはどうやって食っていくんだ?)

B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。

 間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ,庭の奥まったところに引きずっていった。そしてなんと13人がかりで,ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,強+姦しはじめた。(金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し,Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず,内臓をひきずり出して,まき散らした。

 和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは,放課後,家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが,朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り,この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。

この文章は,ある読者からの手紙にあったものだが,冒頭,韓国人が反省し作成したものと書かれているものの,「和夫君」,「和夫さん」などの日本的な呼び方が混じっており,最後の部分に朝鮮+人に対する軽蔑に満ちた文章(削除した)が含まれていたことなどを勘案すれば,韓国語ができる日本人が書いたものではないかと思う。いずれにせよ,この事件について聞いたことがあるという韓国人も多いことを見れば,実際に釜山地方で発生した事件のようであり,また韓国による植民地被害の主張に対する,日本人の対抗論理をかいまみることのできる珍しい例として,決して重みが失われない文だといえよう。

 振り返って考えてみれば,日本の敗戦後朝鮮半島では,このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。日本の無条件降伏以後,北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し,軍政を敷いたが,南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。したがって,約1カ月程度,南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。韓半島には,さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし,彼らは日本人を殺し,財産を強奪し,日本女性を強姦しただろうと思われる。

 そして,朝鮮人たちが8月15日,日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は,おそらく,日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。日本統治の最後の期間,特に大東亜戦争が始まった,最後の4年間は,日本人はもちろん,日本の統治を受けていた地域の住民たちも,大きな苦痛に見舞われた時期だ。それゆえ,朝鮮人たちにとって8月15日は,忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で,また日本人たちを殺し,財産を奪える機会が与えられたという点で,とても喜ばしいことだっただろう。

問題は,韓国社会において,朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず,また調査されたこともなく,われわれが受けた被害だけは,繰り返し強調されているという点だ。そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも,事実よりずっと膨らまされているだろうことは,容易に想像がつく。

朝鮮は日本の統治を受け,未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し,高い生活水準を享受してきた。しかし,日本が戦争に負けるやいなや,素知らぬ顔で,まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく,日本を呪詛し,彼らの財産を奪い,虐殺した行為は,明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと,南韓国と北韓国の政府は,強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び,堂々と山分けした。

もし日本が戦争で勝利したり,少なくとも領土を保全され,休戦にでもなったなら,はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。おそらく,前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ,忠誠を尽くしただろう。ところが,戦争に負け,くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間,彼らは態度を急変させ,日本に仇として接し始めたのだ。

金完燮『親日派のための弁明』の未翻訳部分
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=1091272&tab=five

引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。

 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。   

「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。

 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。


 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。

朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
     

博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。

昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。

京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。しかも一度では済まず、相手も変わった。兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。

救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った。

医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。

「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
        
中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた。 
http://ameblo.jp/disclo/day-20070113.html

※太平洋戦争後、朝鮮半島から日本人が日本に帰る(引き上げ)時に、多くの日本人女性が レイプされ、強姦犯の子供を宿しました。
福岡県の二日市保養所は、レイプ被害に遭った日本人女性に堕胎手術や性病の治療を行っ た。
当時堕胎は違法行為であったが、厚生省は超法規的措置として黙認した。
その病院だけでも数百人の日本人女性が麻酔無しで堕胎手術を受けた。

終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01
http://jp.youtube.com/watch?v=bDjPZXw0yHg #
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ02
http://jp.youtube.com/watch?v=aXPoy_5OFxY&feature=related

終戦当時の第三国人

http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=197810
http://ameblo.jp/worldwalker2/

朝鮮半島を含め中華圏では罪を認めることは死を受け入れると同じ意味です。
そういった価値観の中で何千年と暮らしてきた特アの人間は自身の非を決して認めません。
だからこそ、いまだに在日コリアンの多くが嫌われている理由を考えることができず、受け入れることができません。
在日自身がどれほどひどいことを日本人にしたのかまるで自覚がありません。
日本で苦労しているのは在日自身に原因があるはずなのに、何が何でも認めようとしません。
こんな人たちといつまで日本人は我慢して暮らさなければならないのでしょうか。
もうそろそろ、彼らにけじめをつけさせる時期ではないでしょうか。