1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。
 これより高宗の親政となるのだが、相変わらず酒と女に溺れる高宗に代わり、閔妃(*1)の独裁政治が始まったのである。
 閔妃一族が実験を握り、李朝政権の隅々まで閔妃の一族によって埋め尽くされ李朝後期の腐敗と汚職にまみれた政治がここから始まったのである。
 閔妃は王子拓を世子とするために莫大な資金を費やした。
 そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。
 「巫堂ノリ」は巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。
 そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。
 つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施したことになる。
 当時の李朝の国家財政は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。
 これは法外な浪費だった。宮廷の重職者たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。
 閔妃は、狂気に満ちた宮廷に君臨する最悪の女王だったのだ。
 そして朝鮮の閔氏一族は日清戦争で朝鮮に対する宗主権を失った清国に代えてロシアに接近し、1895年7月、ロシア公使ウェバーの援助を得てクーデターを起こして、大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。


 これに対して、1895年10月、日本公使は閔妃殺害事件(*2)を起こし大院君と金弘集政権を復活させたが、朝鮮国民の反日感情が高まり武装蜂起があいついだ。日本は、この事件以降、朝鮮政府への強引な介入をしばらく差し控えざるをえなくなり、経済的な進出に専念した。
 1896年2月、ロシア軍水兵の応援を受けて反日派(保守派)がクーデターを起こし政権を奪い、金弘集らの政府要人が処刑された。高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年あまりの間そこで政務をとった。
 1897年、高宗王は王宮にもどり、朝鮮が清国に臣従していた際のかたちを改め、独立国であることを示すため、国号を「大韓帝国」に改めるなどの改定を行った。

(*1)朝鮮では儒教の影響が大きくて男女差別が激しく、女性は家系図から外して抹消するのが習慣で、20世紀までは元々名前すら無かったりした。だから閔妃というのは“閔氏一族出身の王妃”と言う意味である。
もしかしたら固有の朝鮮名が有ったのかも知れないが、朝鮮側の記録にも日本の記録にも一切残されていない。“閔紫英”が婚前の名前だとの説もあるが鄭飛石の長篇小説「閔妃」で使っているというだけで、根拠は薄いようだ。故に朝鮮での呼び名は『閔妃』以外には存在しない。
また現在、閔妃とされている写真も日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では、説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり、「閔妃」とするものは全くない。ところが第二次大戦後の日本および韓国で出版された歴史および事典では、ほとんどがこれを「閔妃」としているのである。
つまり別人の写真であったものが数十年経った戦後に閔妃とされてしまい、それが定着したのである。

(*2)「ここでは日本公使が」とされているが、具体的な資料が存在しなかったためである。というのは家臣の行いであった可能性が存在するためである。
『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。つまり、壮士輩は長安堂に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。
高宗は、「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」といい、純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べ、さらには禹範善自身が「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白している。

王妃殺害事件の関係者の証言

* 「禍乱の張本人たる禹範善、李斗鎬、李範来、リシンコウ、趙義淵、
    権濚鎭等を斬首して露館に来り、朕の観覧に供せよ」
* 「王妃を殺した部下に復讐するために、国が滅んでもかまわない」と
    ロシア公使館逃亡中の高宗の発言。(1896年のソウルの町中に張られた勅令)

「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言(1906年 
統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))

「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)

「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)

「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會
(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)

「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀(ゲ・デ・チャガイが
編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言)

「事件に協力した」と、日本の三浦公使
「今後も、日本とは最も親密で居よう」と高宗(1896年2月11日の詔勅
http://www.jacar.go.jp/cgi-bin/image.cgi?image=2&refcode=B03050313400&page=27)

高宗・純宗という目撃者と容疑者の自白から、王妃を殺害したのは「朝鮮の禹範善」

エンコリより引用
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=16&nid=1750466