聞き手の親指を怪我したので短めに。。
前回の続き。
②三段撃ち
三段撃ち。それは、織田信長が行ったとされる鉄砲の新戦術、とされています。
『部隊を3列に並べ、順々に撃っていけば尽きることのない弾幕がはれる。火縄銃の欠点を補うことのできる新戦術である。』
というのが、それです。
が、
当然、間違いです。
そもそも、部隊を順繰りさせていく意味がいまいち分かりません。
それって、無駄な動作ですよね?
槍兵や騎兵との相対が怖いのなら、
槍兵等の歩兵を銃兵の隣にでも置いておけば良い話でして、
そもそも火縄銃で弾幕をわざわざはらなければならない理由って何なのでしょうか?
――弓でいいじゃん。
威力は、弓よりはありますが、それに勝るデメリットが。
※ただし、当時の和弓と比較して、です。
弓の種類によっては、勝るものもあるので。
現代では、コンパウンドボウ 機械弓などは、火縄銃より遥かに恐ろしいです。
❏弓と火縄銃との違いといえば、
・大きな音が出て、
・直射ができ、
・本体代が高く、
・維持も大変であり、
・使用にも莫大な資金がかかり、
・挙げ句、濡れる若しくは湿気ると使えない。
ほとんどの大名が魅力を感じないのも当然ですね。
利点なんて、
・大きな音が出るので、馬をビビらせられること。
・直射ができるので、敵の突撃力を削げること。
・弓と違い避けたり守ったりし辛いこと。
くらいでしょうか?
この当時、火縄銃は最新兵器です。
海の物とも山の物ともつかないそれです。
しかも、管理が大変であり、
カネがかかりまくる代物。
一般的に足軽が使ったともされていますが、
コレはどこまで本当のことなのやら??
だって普通、『高級な最新兵器』をバイトに渡して撃たせる、何てことしますかね?
俺なら絶対しません。
戦場で使わせるのならなおさらです。
どさくさに紛れて持ち逃げでもされたら最悪ですから。
だから織田信長が、数の少ない火縄銃を集中運用しようとしたことのみが真実で、
三段撃ちなんていう戦法は勘違いか空想から産まれたものでしょう。
織田信長が、新戦法を実施できるということは、
配下の部隊を自由に動かせる権限があったということと同義だからです。、
まぁコレも、前提が崩れてしまえばなんとも言えなくなる仮説なのですが、、、。
織田信長の活動を見るに、
織田家が、織田信長を中心とした中央集権的支配方法をとっていたことが理解できます。
ワンマン、や
独裁政治、といってもよいでしょう。
設楽ヶ原の戦いで、武田家も火縄銃兵を数百所有していたことは、資料にあるようですが、
それらが集中運用されていたかは疑問です。
配下の者らが、各々で所有していたものの総数が数百だったと考えるべきでしょう。
武田家は守護の家系であり、
配下の者たちは豪族たちです。
そして、兵士も農民で、普段から火縄銃を扱うような者たちではありません。(江戸時代に入ってからは別)
武田勝頼は、その出自から当主としての権力基盤がとても弱かったと言われています。
そんな勝頼が、数百の火縄銃を自分の直轄部隊だけで使っていられるでしょうか?
そんなことをするくらいなら、ここぞと、配下の豪族たちに貸し与え、媚びを売る方が適切でしょう。
威力があるとはいえ、戦場を決してしまうほどのものではないのですから。
孫氏曰く、
戦力の集中と分散は基本です。
織田信長が、武田家に勝利するため、ソレを行ったとしてもおかしくはないでしょう。
火縄銃が活躍したと仮定すれば、狙いを定めた一つの敵部隊に対して、火縄銃部隊を集中運用したのだ、と考えれば、
火縄銃を活躍させられることでしょう。
実際に何が戦を決したのかは、闇の中から漁ってくるほかないのでしょうが。
しかし、織田家の戦力単位が、他家と異なり、細やかに分けられていたことは確かだと考えられます。
赤母衣衆や寄騎などが存在し、家臣を自由に移動させていたことがソレを示しているでしょう。
武田家や上杉家等は、地元からほとんど動きません。
なぜなら、彼らの配下の者たちが、それぞれの土地に根ざしているからです。
大名自身が動いてしまうと、配下の者たちの勢力図を矢鱈滅多にかきかえてしまったり、崩してしまったりしかねないからでもあります。
其れを実行できた織田信長が飛躍するのは当然であったと言えるのでしょうね。。
武田家⇢⇢豪族⇢⇢農民
織田家⇢⇢宿老⇢⇢家老⇢⇢組頭
↳赤母衣衆・黄母衣衆
同じ兵数でも、離合集散を自由にするには、戦力単位は細かいほうがやり水車。