第六感 | 桑原 渉のブログ

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科学的観点からの考察

超心理学などの研究対象となってはいるものの、通常の感覚がそれぞれの感覚器(受容体)が解剖学的に確認できるのに対し、「第六感」に対してはその様な器官は発見されていない。つまり、現在のところ科学的には何の根拠も与えられていない。

大地震などの天変地異の際には、必ずと言って良いほど事後に「第六感」による予知現象が見られた(あるいは動物などの奇異な行動、異常な形の雲が現れた等)という報告があり、マスコミ等で取り上げられる事も多い。しかしその多くは確率論的・心理学的な反駁が可能である。また、事後報告に基づく以上は科学的検証は不可能である(この事は「第六感」の存在を直接否定するものでは無い点に注意)。

集合的無意識によるシンクロニシティによる説明も試みられているが、現在のところ科学的検証には成功していない。量子論に基づく説明も試みられている。

逆説としては、無意識の働きにより過去の学習と僅かな周囲の状況の変化などから「異常事態ではないか」と判断を下しているのではないかという、「第六感」の存在を否定する説も存在する。

一般認識

虫の知らせ, 枕頭に立つ等と呼ばれる現象については、その存在を信じる人も多い。しかし、科学的見地からその存在を全否定する立場に立つ人も同様に多い。

予知

例えば、自身や家族等の生命に危険が迫った際に「虫の知らせが起きた」と認識されたり、電話がかかってくる前に予知したり、その電話が誰から掛かって来るかを予知したという主張がなされる場合がある。

予知に関してはヒトよりも他の動物で顕著に見られる現象であるともいう。動物においては、地震や火事を予知して逃げ出す行動等が多数報告されている。


これは、一説には動物達に見られる現象がいわゆる「第六感」とはやや異なり、人間よりも遥かに鋭い感覚及び感覚器によって行われている可能性があるからではないかとされている。

例えば数百キロ離れた水場に向かって迷わず移動するある種の動物は、人間より遥かに優れた嗅覚で水のにおいを嗅ぎ当てているとされ、地震の直前に騒ぎ立てる魚類や鳥類は、事前に発生するとされる地磁気の異常や超音波、電磁波を優れた聴覚や体の受容体で感知しているのではないかという説がある。この場合はそのような受容体(つまり「器官」)の存在が認められるならば冒頭の定義に従う限りにおいてはそれは「第六感」ではないということになる。  また山火事などが起こる場合も、普段馴染みのない「物の燃える臭い」や「異常な温度」をある種の危機察知能力としてとらえていると思われる。このように動物の危険察知能力のような、「第六感」よりもより現実的に(既存の五感の中で)説明が付くのではないかと思われる能力は、科学的見地において決して超常の力ではないと考えられる。


いずれにしても人間以外の動物にみられるこれらの予知現象については、そのような天変地異の「前兆」「予兆」という用語が当てられる事が多いため、「第六感」という用語は一般的に用いられない。

また、統計学的・心理学的には、これらの報告が往々にしてなされる理由として、特別な感覚能力により天変地異が予知されたという事実を示すわけではなく、日常は一般人が気にとめる頻度は少ないが一定の頻度で起こりうる現象を、非常に多数の人が同時に激甚災害に被災したことによって、確率論的多数の人々の脳裏に被災の記憶とともに強く印象づけられ、それが一見「多数の報告」として流布されているだけだという説がある(この逆説は一見「第六感」を否定するものともとれるが、これは「多数の報告」そのものが「第六感」の存在証明とはなりえない事実を示しているのみであり、一部に真の「第六感」が存在する可能性を否定する根拠とはなりえないが、「予知・予兆現象」がいわゆる「都市伝説」として往々に語られる事の蓋然性を強く示唆するものではある)。

熟練・直感による特殊能力との関連

  • ある種の熟練工が、機械工学的には不可能であるとされるような精度の物を、単純な道具と熟練した手技によって作り上げる例がある。
  • データを精査する方法では決して得られなかったとされる様な新たな科学的見地が、論理的に説明できないような突然の閃き、つまり、直感的飛躍によって導かれたりする事が往々にして見られる。
  • 芸術作品の中には、論証することが不可能なある種のひらめきによってしか生み出され得ないとされるようなものが存在する。

これらの事象について「第六感」との関連によって説明しようという試みがされる事も多い。

  • 解剖学的に受容体が無いのに感じることができる能力を「第六感」というが、多くの人は無意識のうちにそれを行使していることがある。

例として他者の考えや思いを表情の目視だけで理解することがある。