今日は「どぜう」ですよ。

どぜうの丸かじり (文春文庫)/文藝春秋

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【--丑の日のうなぎに対抗して、どじょう丼を支援するべく浅草の老舗にのりこんだショージ君が見たメニューには…。他に、おじさんの歯にニラがはさまってニラプラになる「ニラの怨念」、空港の税関申告より難しいコーヒーの注文にトライする「おじさん“スタバデビュー”す」など読み出したら止まらない35篇。】


--三人は半分の串かつをそれぞれ食べた。皿の上に半分の串かつが残された。その半分、ぼくが食いたい。率先して食いたい。しかし三人は、そのことにはまるで無関心、というふうに会話をはずませるのであった(「おごられ酒はつらいよ」p.92より)。

これは、著者が三人で居酒屋に行ったときのお話。それも最初から構成員の一人のおごりであることが決まっている状態。

この作品を読んでもらえれば分かりますが、共感しかない。

そうなんだよ、「おごりだ、飲め飲め」と言われるとむしろ気を使う。おごり主の懐事情は分からないし、その人の好きでないものを注文するのも気が引ける。ガツガツ行くのもみっともないし・・・。それだったら自分もお金出すから自由に食べたい。気心知れた間柄ならば、素直に厚意を受け入れますが、そこまでの間柄で無い場合、後日のことを考えて気が気じゃない。

おごりだろうなぁ・多めに出してくれるんだろうなぁという空気の下、最後の会計時に「全部出すから」と言ってくれるならまだ良い。最初から会計主が決定していると途端に難しくなる。

そしてこの抜粋した文章。これも起こりがちですよ。別名「遠慮の塊」。日本人特有の遠慮という奥ゆかしさに潜む行き過ぎな配慮。

全員が同じ分量を食べなくてはならない道理なんてないですからね。せっかく串に刺さった焼き鳥を、わざわざ外さなくてもいいじゃない。「自分○○個食べたから、残りは△△さんの分だよ!」、そんな決まり無いから。どんなに美味しい焼き鳥でもバラしたら美味しさ半減ですよ。

だから微妙な間柄の人との飲み会は嫌なんだ。


--刻みキャベツはトンカツの横のみに現れ、あとは忽然と姿を消す。フライドチキンの横に登場してもおかしくないのに登場しない。ステーキの横に登場してもいいのに登場しない(「トンカツの刻みキャベツ」p102より)。

確かにトンカツと言えば刻みキャベツ、刻みキャベツと言えばトンカツ。誰もが納得する不文律。

他の揚げ物の付け合せに刻みキャベツが使われていたりもするけれど、大体それは替えが効く。アジフライ、カキフライはレタスに横たわっていてもおかしくないし、更にはキュウリやトマトをお供にしていることもある。

エビフライには、ミニトマトやブロッコリー、パセリ等もよく似合う。

しかし、トンカツはどうだろう。キャベツ以外にしっくりくる付け合せはあるのだろうか。いや、ない。トンカツにはキャベツ、正確には「トンカツにはキャベツのみ」の組み合わせが至高なのだ。

糖度○パーセントの甘い甘いトマト?いらんいらん。パリッとした食感の瑞々しいキュウリ?いらんいらん。

1玉100円のキャベツの方がずっといいですよ。


世間一般が、うなぎ、うなぎと騒いでいるまさにこのとき、ぼくはあなごとどじょうをなんとかしてあげたい(「どじょう丼をどうじょ」p.18より)。

どじょうは生涯で2回しか食べたことがないですね。いずれも柳川鍋。頭から丸ごと入っているので、苦手と言う方も多いんじゃないですかね。

自分は生まれが田舎なので、子供の頃普通に用水路でドジョウを捕まえていた記憶があります。ヒゲがなんとも可愛らしい。そういう経緯もあって、ドジョウは食べ物というよりも一緒に遊んだ仲間という印象が強い。

年に何回か鰻が無性に食べたくなる(通勤経路に鰻屋があるのも大きい)一方で、ドジョウが食べたくなるということはまずない。食べたら美味しいんだろうけど。あえて食べに行こうと思わなければ、たまたまお店に置いてあっても注文しないだろう。

そういえば、「どぜう」という表記どう思います?。

ちなみに「らぁめん」は許さない。「らぅめん」はもっと許さない。

あれ?この流れどこかで・・・

「どぜう」は趣深くてよろしいんじゃないでしょうか。