3月、母の両足の浮腫は変わらず、上半身は痩せているのに、下半身は凄く太くなっていました。


浮腫が追い討ちをかけて、体力は著しく低下してきていた母。



3月上旬、母は3週間に一回の抗がん剤治療のために病院へ行きました。私は母を病院に送り家に帰り、いつもの様に病院に居る母に電話をしました。



母は電話に出ると、主治医の先生から黄疸の数値が上がってきているから、次回の抗がん剤投与は厳しい場合があると、母はそう言われたと私に言いました。
 
             

もうこの時期の母は、精神的にも、体力的にも凄く辛そうでした。



私は母の ビリルビン上昇もあり、すぐに主治医に電話をしました。



電話を入れ、母の ビリルビンの上昇に加え抗がん剤の話をして、私はエルプラットではなくて、錠剤の抗がん剤にした方が良いですか?と主治医に聞きました。



すると主治医から、思いもよらない言葉を言われました。


主治医は、[抗がん剤とかもうお母さん そんな段階じゃないんですよ いつ寝ていて起きたらお母さん息止まっていてもおかしくないんですよ 他の病院行かれますか?僕、紹介状書きますよ ガンセンターでも何処でも良いですよ ですがもっと悪いこと言われますよ]と前野医師は言いました。



私はただ、母の体調とこれからの治療のことを聞いただけでしたが、なぜか逆ギレされ、他の病院行かれますか?紹介状書きますだの。良く言ってくれたと思いました。




医師の非情な言葉を聞いて一瞬で頭に血がのぼりましたが、深呼吸をして、冷静に話をして、私はただ母の体調を少しでも良い方向にもっていきたいと主治医に話をしました。主治医は最後は話を分かってくれたのか、出来る限り最善を尽くしていきますと言われていました。




電話を切り、私は凄く悲しい気持ちになりました。母がこの話を聞いたらどんなに悲しむのか。母は、最後の主治医を本当に信用していました。初めて入院してからチームで居た医師で、良く気にかけてくれる良い先生だと母は良く言っていました。




ですが、私は信用0でした。昨年の6月に余命1ヶ月 もって3ヶ月と言い、効かない抗がん剤をするからと 同意書にサインをさせて、本当に効かない抗がん剤をずっと継続。エルプラットはアレルギーが出たから無理だと言い、こちらが良く説明すると、間違いだと認めエルプラット治療開始。医師なのに抗がん剤の組み合わせや、自分から何も治療の提案をしない。




極めつけは、完全に弱った母の状態を分かったうえで、他の病院や紹介状など、歩くのさえ困難になっていた母に、他の病院でまた一から、少なからず検査、説明の話、病院の環境に慣れないといけない。冗談でも笑えないことを前野医師は普通に言ってくれた。




こんな医者に、母の命を一年以上預けていた自分が本当に恥ずかしくて 情けない。



それから、母は無事3日目に退院。そしてこの抗がん剤投与が母の最後の治療となりました。



退院したら、いつも通り何か食べに行ったり、買い物したり。家に帰ると母は風呂に入り、横になって、テレビを観て笑う母。何気ない日常が幸せでした。


でも、母の体調は悪くなっていくばかり。


3月上旬に抗がん剤投与して、3週間経ち、抗がん剤投与に行く日になりましたが母は、今日はキツいけん病院行きたくないと母は言いました。私は、病院に行った方が良いと言いましたが、母はどうしても行く気がしないと。私は、病院に断りの連絡をしました。



この時期、訪問医師とも私は距離を置いていました。3月上旬にはお母さんあと、1週間か2週間かもしれないよと主治医が出した紹介状に書いていた余命をまた言い出し、私はうんざりしていた。お母さんに本当のことを伝えた方が良いと思うと訪問医師は言うが、母が自分の状況を分かってないとでも思っているのかと。私は呆れた。




病院にも行ってないし、訪問医者も家に呼んでないので、痛み止めのセレコックスが切れてきていたので、私は徳州会にセレコックスを処方してもらいに行っていました。ですが、本人様が来て、しっかり診察していただかないと、数日分の薬しか出せないと。そんな日々を少し続けていました。
 



そして、3月の終わりに母は病院へ行きました。私は用事があり、母だけ病院に行き話を。ビリルビンの数値は3.1 主治医はうちでは3.0越えると抗がん剤は出来ませんと言い、入院となればもう退院は出来ないと母に伝えていた様でした。




母が説明を受けている間、色々と相談にのってくれている看護師さんが兄に電話をかけてきていました。看護師さんは、お母さんは 自分の命は覚悟は出来ているから関係ないけど、ただ息子達のことだけが心配だと、お母さんは言っておられました 昨年の6月も息子のためにも少しでも長く生きたいから、効く抗がん剤があったらお願いと看護師さんに母は言っていた様でした。


その言葉を聞いて、私は凄く胸が苦しくなりました。母がそんなことを言っていたなんて。それから、お母さんは、このくらいで音を上げていたら、母ちゃんに悪いとお母さんは言っておられましたと言いました。


私のばあちゃん、母のお母さんのことです。ばあちゃんは、肝硬変でした。母の父は私が母のお腹に居るときに亡くなりました。


ばあちゃんは、強くて、凄く優しい人でした。お酒が好きなばあちゃんでしたが、お酒を飲んでも変わらず本当に優しくて、本当に大好きなばあちゃんでした。



肝硬変で、お腹がポッコリ出ていて、そんな状態でも病院には入院しなくて、一年間の間に数回救急車で運ばれる日もあった様ですが、手術も拒否してばあちゃんはがんばっていました。



ですが、22年前病院に入院してからばあちゃんは弱り、私がまだ小さい時に亡くなりました。母と同じ57才でした。



亡くなる前日にばあちゃんは、どうしてもバニラアイスが食べたいと母に言って、母はアイスをばあちゃんの口に。ばあちゃんは美味しいと一口だけ食べて、眠りました。それが最後でした。



大きくポッコリ出たお腹で苦しい状態でも、一年もの間弱音も吐かずばあちゃんのがんばっていた姿を母は見ていたので、母ちゃんに悪いと言ったのだと思いました。


そして、母がどうしても病院に入院することは望んでなく、病院側は訪問医師の先生をしっかりと家に診てもらいに来て頂くことを条件に、家に帰宅しました。一時は距離を置いていた訪問医師でしたが、4月から自宅のみでの診療が始まりました。