【鴨とアヒルのコインロッカー】
- 最近ネタが本ばかりな気がするけど、
読んだ本が良かったら、つい紹介したくなってしまう。
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- アヒルと鴨のコインロッカー/伊坂 幸太郎
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僕が読んだ伊坂幸太郎の作品としては、重力ピエロに続いて
2番目である。
重力ピエロに比べ、謎・どんでん返しの要素が強い様に感じた。
その為、最後までストーリーの展開が予想出来ず、
ハラハラとしたまま読み進める事が出来た。
と同時に、特有の切ないテイストも十分で、
登場人物各人の心情を考えざるおえない描写が多い。
ストーリーに入り込み、各人に入り込み、
そして泣く(僕は心の中で)。
現在の社会問題を絡めた構成となっており、
心情以外の部分でも考えさせられる作品だった。
世に溢れる理不尽は、簡単に受け止められるものではない。
しかし、逃げるばかりともいかない。
その境目で、自分ならどう行動し、バランスを取るか。
そんな事を考えた。
勿論、単一の回答はない。
苦しみは抱えたままでも、生きていくしかないとは、思う。
【こどもという表現】
人の文章を読んでいると気になる事がある。
子供についての表現の仕方である。
年齢によっても様々であるが、
「子ども」
「少年・少女」
「児童」
「ガキンチョ」
まあ、色々ある訳で。
一番使い回しが利く表現は「子ども」だと思う。
呼ぶ人は高校生に対してだって「子ども」と呼びかける訳である。
勿論、言われた方は、
「ガキ扱いすんじゃねーよ」
と反発する場合もあると思うのであるが、ともかく使い易い。
その点で、僕は「子ども」という表現が好きである。
加えて、この表現は、対象との心理的距離も近い様に思う。
ニュースなんかでは、
「○○歳の少年が・・・」
とか、
「○歳児童が・・・」
等と表現している。
冷静かつ客観的な表現である。
距離は、遠い。
心理的に遠い出来事になってしまうから、
今ひとつ実感が沸かない事になってしまう。
だから、こういった表現はあまり好きではない。
そこでもし、ニュースでの表現を「子ども」に置き換えたら
どうだろうか。
「○○歳の子どもが・・・・」
「○歳の子どもが・・・・」
少し幼稚かもしれないが、とても身近な事である様に感じる。
折角大人らしい表現をしても、受け手が実感を持ってくれなければ
意味はないと思う。
子どもが事件に巻き込まれた場合も、
受け手が遠い世界の出来事と思ってしまっては報道の意味がない
と思うのである。
同じ歳位の子どもがいる親は、それでも感情移入してしまうだろうが、
そうでない人に実感してもらうには、やはり「子ども」という表現が
いい様に思うのである。
身近にいるのは「少年」っていうよりも「子ども」の方が多いはず
なのだ。
そして「子ども」は自分にとっても「子ども」だと思うのである。
その実感は、結構大事だと思う。
そう思える人は、あんまりいないのかな。
どうなんだろう。
でも、対象をどう表現するかはとても大切だと思う。
それはニュースとかに限らず、ブログでも。
「子ども」という表現が、何となく気になったもので。
以上。
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【蟲師】
僕は普段あまり漫画を読まないのだけれど、
何種類か愛読しているものがある。
その中の一つが「蟲師」である。
この世のあらゆるモノより生命の源流に近い、
生命とも物ともつかない不思議な存在「蟲」。
この蟲が引き起こす不思議な事件をそれに巻き込まれる人々と、
主人公であり「蟲師」のギンコのそれぞれの視点から解き明かしていく
一話完結の物語である。
独特の淡いタッチの絵柄と、
どこか郷愁を誘う風景。
不思議なものを不思議なままに描くストーリーが相まって、
美しく、切ない世界観を生み出している。
僕は基本的に綺麗な話が好きである。
中でもファジーかつ繊細な物語というヤツが結構好きである。
そういった嗜好にマッチしているという事もあるが、
その繊細さがどこから来ているのかというと、
それは作中の人物達の感情だと思うのである。
単純明快な「喜怒哀楽」だけでなく、
色々な要素が複雑に混ざり合って、
そして刻一刻と変化をしていく人の気持ちを、
素直にそのまま表現をしているからこそ、
曖昧で、しかし共感出来る話となっているのではないだろうか。
僕は、そういった点からこの作品を好んでいる様に思う。
この作品、知らない間に実写映画化されていた様で、
今年の3月公開予定との事。
主演はオダギリジョー。
少しヒゲが気になるが、はまり役ではないかと思う。
予告編も公開されており、映像の美しさに圧倒されてしまった。
久々に映画館に足を運ぶ気になってしまった。
それ位、楽しみである。
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