やはりシータヒーリングは危険なのではないか | 巡礼者のブログ

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 自分で自己流でシータヒーリングを自分に施した結果、危険である側面があることを以前書いたが、それとは別な意味で、シータヒーリングは危険であることを感じている。


 どうもシータヒーリングのセッションをしているプロの方というのは、カウンセリングというものについての認識が極めて甘い方がおいでの様だ。シータヒーリングのセミナーを受けるだけで、資格が取れてしまうのだから、カウンセリングについての、専門的な訓練を受けている訳ではなさそうだ。このことは、シータヒーリングのシステムの致命的な欠陥であろう。


 これでは、シータヒーリングを使える、ただの侵入的なオバサンを生産することになりかねない。というか、シータヒーリングのプロの方の日記を読むと、そうとしか思えない人たちがいる。


 そもそも、カウンセリングというのは、まず、プライバシーが何より優先されるべき条件であって、それがあってのセッションであるべきである。そのことで、信頼関係をはぐくんでいく、というのが、真っ当なカウンセリングの姿というものである。


 クライアントの名前を伏せていても、そのセッションの内容について、アメブロで書くなどというのはもっての他である。猛省を促したい。


 更に、セッションに、別のシータヒーリングのプロを、知り合いだ、という理由でその場で加えてセッションする、などというのは、カウンセリングという意味でも、あってはならないことである。


 ある日記では、クライアントに対して、二人かがりでズバズバ(~ズバズバ、という表現で書かれていた~)言ったら、上手く行った、などとの文章がある。これでは、社会性の欠落した侵入的なオバサンである。しかも、シータヒーリングという、神との関わりを軸としている方法であるから、宗教の勧誘・折伏・支配のオバサンと同じである。実に腹立たしいことである。許し難い。


 正直なところ、スタイバル氏の文章の書き方や、本の表紙に写っている容貌などから、どうも注意が必要だ、という印象を受けていた。多分、スタイバル氏は、「自分は正しいことをしている」という意識を持った人なのではないか、という印象を拭えなかった。おそらく、そのことが、カウンセリングの基本とは何かを軽視するシステムにしているのであろう。これでは、カルトと大差ない。


 カウンセリングの基本を無視したセッションのやり方が、シータ難民というのを生み出すのは当然の帰結であろう。この場合、難民というより、被害者と呼んだ方が正しい。犠牲者と言ってもいい。犯罪的だ。


 こういう事情をアメブロの日記で読んでしまうと、もし、シータヒーリングが優れた方法であったとしても、扱う人、指導する人、方法を編み出した人の在り方によっては、カルト宗教と何ら変わりないものになってしまう。


 スタイバル氏をはじめとして、この様な状況を放置し、シータヒーリングという名前で商売をしている人たちに猛省を促したい。スタイバル氏には、カウンセリングの基本を勉強し直し、シータヒーリングのシステムを健全なものにして欲しい。それが、社会的な責任というものだ。