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初夏の頃    (20070805)


移動教室の際、上級生とすれ違うことが、たびたびありました。
そのたびに、声を掛けられました。


3年生に声を掛けられる時は、大抵従兄弟の事絡みで呼び止められました。
「 この間も、君の事頼まれたから、何かあったら本当においでね 」と、
「 なにか、困っている事はないか? 」と。 好意的なものばかりでした。
私は、従兄弟が好きだったので、曖昧にお礼を言って笑っていました。
従兄弟が、毎日のように、「 学校は、平気か? 大丈夫か? お前の事、話してあるから、大丈夫だぞ! 」
と、気を使ってくれていました。
従兄弟の優しさを、どこか負担に思いつつも。 
私のことを思っていてくれているのだと解かれば解かるほど、拒絶出来なくなって行きました。


2年生に声を掛けられる時は。 
「 この間、( 私に )殴られた○○○だけど、覚えてる? 」とか、
「 この間、呼び出した○○○○だけど、解かる? 」とかと、直接の関わりを話題に含んで来ました。


私は、人の顔や名前を覚えるのが得意ではありません。
だから、覚えているか?と、聞かれれば、素直に
「 覚えていないです 」「 知りません、ごめんなさい 」と、愛想無く話を切り止めました。
大抵の人は、言葉を飲み込むように、怒っているようでした。
けれど、怒りを抑えるようにして、私に好意的に接してくれているようでした。
私はそれでも愛想無く、「 じゃ、行きます 」と言えば、
「 次は、覚えていてね 」と言う様な事を言ってくる人も、時々いました。


そのやり取りを見ている同級生たちは、私を遠巻きに見詰めていました。
その目の意味に、やりきれなさを感じ、人との距離を保つようになりました。


そんな中でも、2年生と会話を度々するように成りました。
私は、「 ○○○さん 」と、話しかけていました。
そんな日が何日か続き。 
ある日、「 あなたより年上なんだから、先輩と付けなよ 」と言う様な事を言われ。
不穏な空気の中で、2年生の教室で、私は感じているままに応えました。
「 尊敬してないし、ひとつ年上なだけでしょ。 自分が、先輩だと尊敬したら、そうするよ 」と、言いました。


一触即発の空気が流れたのを、感じ取っていました。
もう、どうでも良かった。 めんどくさかった。
殺すか、殺されるか、それでいいと思っていた。
これを切っ掛けに、家を出るチャンスを掴もうと、虎視眈々と狙っていたからでした。
次、ケンカすることがあれば、相手を殺す気で挑んでいく決意をしてました。
だから、校舎でもケンカを売るように、視線を鋭く小ばかにする様に人を見下してました。


相手を殺しても構わない。 そう、思っていました。
それと引き換えに、家を出れるなら、どんなリスクだったとしても構わないと。
一生背負うことになっても、家を出れるチャンスを得れるのなら、それを掴み取ると決意してました。
その結果、殺されても構わないと、思っていました。
もし、生きている事があるのなら。 鑑別所だろうが少年院だろうが。
その時間の中で、確実に家を出るチャンスを掴むんだと、硬く願っていました。


私は、睨み据えました。 けれど、折れたのは2年生の方でした。
「 解かった、もう、行っていいよ 」と。
力なく言われ。 私は、どこか落胆を隠せずに、自分の教室へと戻って行きました。
従兄弟の影響力が、どれほどなのか。。。今更ながらに、思い知らされるようでした。
何故だか、とても悲しい気持ちの中で、ため息をつきました。


自分に、自嘲しました。 自分がいかに、最低な人間か再確認するように。
親に、何も言えないから。 誰かの血を流しても構わない自分に、言い訳を繰り返し。
けれど、誰も私と向き合うようにケンカを吹っ掛けて来る人は、誰一人いませんでした。
私は、商店街でも目が合えば睨むように、ケンカを売るように見据えてました。
ですが、視線を返される事は、ほとんどありませんでした。


この頃から、性的なイタズラをされる事が、無くなりました。
ただ、身内からは相変わらずありましたが、それも拒否できるようになりました。
ですが祖父だけは、私がどんなに虚勢を張り拒否しても、捕まえられて触られてしまいました。
手を掴まれ、膝に乗せられ、お酒の匂いに、祖父の体臭に、動けなくなりました。
怖くて、動けなくなってしまうのです。 祖父のお酒の匂いと体臭を嗅いでしまうと。。。
意識が遠ざかるような感覚に陥りました。 自分の意思が、感じ取れないような空白の時間。


そして、開放され。 泣きたいのに、それ以上に強い吐き気が襲ってきては泣けるタイミングを逃し。
泣きたい気持ちが、解からなく成って行き。 自分の感情が、理解できなくなっていきました。


ただ、怖かった。 親が。 母親が。
これ以上、この家に居たら、私はダメになる。 そのことだけは、強く解かってた。
だから、一刻も早く、家を抜け出したかった。
けれど、母と向き合う事は、もう、かなわないほど。 私は、恐れ、どこか投げていました。
母の涙に、暴力に、言葉に、私は絶対に、かなわないだろうと。
だけど、このまま家に居たら。 私はダメになる。
その事だけは、はっきりと、解かっていました。 
だから、人に挑むようにケンカを売るように、ピリピリした時間の中で、過ごしてました。
それがどれほど、最低で汚い事か解かっていて、それでもそれを、選び取りました。
摩り替えているだけだと、自覚しながら。


けれど、母の知り合いやご近所さんに出会えば、にっこりと笑い、愛想を振り撒きました。
視線を柔らかくし、声のトーンを穏やかにあどけなくして、
「 ご挨拶 」や、「 社交辞令 」を繰り返しました。
心が、バラバラに成っていくようでした。 心が、剥がれ落ちていくようでした。
父の接待相手の思考に、自分の思考を重ね合わせ、吟味する。
吐き気が止まらずに、罪悪感に駆られ、正体不明の恐怖感に怯え。。。
思考を重ねれば重ねるほど、自分と言う人格が、掴めなくなって行きました。
けれど、接待でのシミュレーションは正確度を増して行きました。


罪悪感が、私をさいなみました。 
意味が理解できていないのに、良心の呵責に吐き気が止まりませんでした。
それでも、生きたいと。 逃れたいと、強く願っていました。
誰の血を流しても構わないほどに。 それがどれほど、汚らしい事か解かっていて。
摩り替えているだけだと、解かっていて。 それでも、逃れたいと。 生きたいと、願っていたのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大人になって思うのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自己弁解に成ってしまうので、避けますが。


やはり、思います。 
今現在、苦しんでいる子供が居るのなら、苦しまない社会にどうすれば成れるのか。
なにが、正解なのか、、、
どうすれば、苦しまないで健全な大人に成っていけるのか。。。
子供たちが、どうすれば、、、幸せに暮らしていけるのか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、