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「お母さん」と言う言葉が持つ「意味」        (20061008)


小学校5~6年生の担任の先生は、若くてキレイな女性の先生でした。
優しくて、明るくて。ジャージに笑顔がとても温かくて、ずっと一緒に居たい気持ちにさせてくれる先生でした。
そんな先生に、2~3度、「 学校を辞めたい 」「 転校したい 」と話したことがありました。
先生はいつも困ったように、「 それは無理だよ 」と話してくれました。そんなある日、私は先生を呼び止めるとき、「 お母さん 」と咄嗟に口を出てしまいました。
そんなこと、今まで一度も思ったことが無かったので、酷く恥ずかしく、照れたのを覚えています。
私は、この若くてキレイで優しい先生が、本当に好きなんだなあと思いました。


ある日、先生が人気の無い体育館の横に一緒に来て欲しいと、言われました。なんだろうなと思い、切羽詰ったような先生に促されるようにして、体育館へと向かいました。
少し高さのあるコンクリートに、二人で腰を下ろし、先生が重たそうな口を開いて言いました。
「 先生だって、人間なんだよ! 」と、涙顔で切羽詰ったように切り出されました。
先生の顔は、涙でぐちゃぐちゃでした。お化粧も取れてしまい、それでも私の目を逸らさずに、何かを訴えていました。
私は何を言われているのか、解かりませんでした。ただ、気持ちの上での衝撃を、受け止めるのが精一杯でした。
この後、何かを言われたようですが、私は想像もしていなかった展開に戸惑い、何を言われ、何を話したのかは、先生のその顔と言葉以外覚えていませんでした。


原因を、一つ一つ考えて見ます。
先生側から、「 見えているだろう範囲以内 」で。全ての事柄を、挙げてみます。
●私は、宿題をほとんど提出したことがありません。
●保健室の常連でした。
●給食中に「 食べるな 」と、泣かされることがありました。
●班を決める時、あぶれるようになり、先生にどこかの班へ入れてもらうように決まりました。
・・・・・・・・・あとは、どうしても思い浮かびません。
親は、私がイジメられている事を知らなかったので、そのことで先生を追い詰めたと言う事は、考えられません。


では、可能な限り推測をして見ます。
私がイジメられていたのは、いくらなんでも解かっていたと思います。
クラスの子に、原因などを聞いたとします。キーワードがあるとすれば、恐らくここでしょう。
誤った情報が、先生を傷つけたのでしょうか?それとも、追い詰めてしまったのでしょうか?
混乱させてしまったのでしょうか?いくつかの仮定が、一つの答えに繋がって行きます。
先生が仮定しているだろう私の「 性格 」。
話を聞いた子供たちの、恐らく一貫しているだろう「 意見・情報 」。学校側からの、先生に対する指導や圧力が或いはあったのかも知れません。
時には、全てに真実は無く。時には、全てに真実が含まれている。
あるいは、形を変えた真実が隠されている事もあると思うのです。
そういう事なんだろうなあと、大人になった今でも思います。


余談ですが。
これを境に、私は一つの自分の中の法則を見つけることが出来ました。
「 一つの答え 」があったとしても、それは果たして、真実なのか?
あるいは、誰の真実なのか?私自身に取ってそれは、どんな意味合いを持つのか?
多勢とした場合、それはどれほどの信頼度や重要性を誇るのか?と。
後に、これらは違う方面での好奇心を刺激されることに成りました。


一つの答えが弾き出されたとしたら、今度は逆パターンの見解が書かれている本等を読んだり探したりするのが、とても楽しい作業になりました。
一つのテーマに書かれていることが、著者によっては、まったくの違う見解だったりするのです。
その「 違ってくる要素・要因・思考・背景・持論・結論・可能性・嗜好等 」を、
私なりに著者別に探っていくのも、また、楽しかったです。読む本、探すテーマ、絞っていく仮定。終わりの無い楽しみに、ゾクゾクとしてました。
時には、著者同士、重なる部分があったり。まったくの相違異見だったりするのです。
その中間であったり、どちらでもない異見だったり。時には、面白いくらい「 感情論 」も含まれていたり。
推測や偏見、時代によって覆されていく答えや、二転三転するもの。
正義や思想や資本主義などの概念によっては変わってくる事もある見解の違い。
柔軟性の無い本等も一つの見解としては、面白く感じるようになりました。
必要なのは、出来る限りの内面・内情も含めた情報収集と、処理能力なんだろうなあと、仕事をする様になってからは更に思うように成りました。
( もちろん、用途や自己の性質にもよるのでしょうけれど。 )


余裕幅も含めた数値化が。幾パターンもの中で、いかに数パターンまでに絞込み、その遊び幅も含めた「 信頼度 」に対する信頼度調整など。
そこから、自分なりの見解や実戦データを踏まえた上での、信頼度調整が辛辣な数値化是正が楽しくなって行きました。


ただ、突き詰めていけば。二者間以上の事柄に「 100% 」の非も是も存在しないと思うのです。
あくまでも、私の個人的な見解ですが。少なくとも私は、そう感じています。