江戸時代、日本が国を閉ざしていた鎖国体制の中で、唯一の窓口だった長崎。
その長崎と小倉を結び、西洋の文化・文物が行き交った道が長崎街道です。
およそ約228㎞の道のりには25の宿場が点在し、大村屋のある嬉野町下宿は「嬉野湯宿」
と呼ばれた宿駅でした。
嬉野温泉が美肌の湯と言われるようになったのは最近のこと。
肥前風土記(713年)に「東の辺に湯の泉ありて能く、人の病を癒す」と
記されるように、古くから効能高き湯治場として知られていました。
街道を行き交う人々も、嬉野に立ち寄っては旅の疲れを癒していたのではないでしょうか。
また、長崎奉行や諸大名が宿泊するときは、本陣として臨済宗の瑞光寺が利用され、
大村屋は脇本陣だったといわれています。
大村屋の名前が登場する最も古い文献は、戯作者・太田南畝の『小春紀行』。
「ゆきゆきて嬉野の宿につく。主を大村屋という、北川兵次郎なるものなり」と
文化2年(1805)に記しています。さらに、日本地図を作るため長崎街道を通った
伊能忠敬の文化10年(1813)の記録にも「大村屋兵次郎」の記述が見られます。
ということは、大村屋の創業は文化2年以前と推測されますが、
大正11年(1922)に嬉野温泉の大火で大切な記録がほとんど焼失。
太田南畝や伊能忠敬などが宿泊したという宿帳も、残念ながら残っていません。
その後、「天保元年」の印がついた敷石が出てきたことから、
創業年を天保元年(1830)としています。
嬉野温泉の大火で焼失したものの中には、佐賀県小城市出身の
書聖・中林梧竹(1827-1913)が最晩年、亡くなる直前に書いたという書もありました。
大正9年、療養のため嬉野温泉を訪れ、大村屋に宿泊した歌人・斎藤茂吉は、
梧竹の書を見て「嬉野の旅のやどりに中林梧竹翁の手ふるひし書よ」という歌を詠んでいます。
残念ながら、その書は焼けていましましたが、
現在、大村屋のロビーには、それに代わる梧竹の書を飾っています。
長い歴史に培われ、文人たちに愛された嬉野温泉・大村屋。効能高き湯に浸りながら、
歴史ロマンに思いを馳せるのも、また一興です。
きょうのうた 五番街のマリーへ/ちあきなおみ