題名:MUHAMMAD: Para Pengeja Hujan(『ムハンマド―――雨を綴る者たち』)
著者:Tasaro GK
出版社:PT Bentang Pustaka, Yogyakarta
発行年:2011年 5月


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ずいぶん長い間放置しておりました。
ほんとうは、今年もラマダン中にこの『ムハンマド』第2弾をアップするつもりだったのですが。

ともあれ、これは昨年出たムハンマドの評伝(?)小説 “Muhammad: Lelaki Penggenggam Hujan” の続編です。
前作が、え?こんな終わり方あり?という感じだったのですが、実はまだ続きがあったんですね。

この第2弾の中でも、ムハンマドとムスリムたちを巡る物語と並行して、ペルシアの名詩人Kashvaが故国を追われてチベットへ逃れてからの流浪譚と、激しい王位簒奪戦を繰り広げるペルシア宮廷、そこへ天才建築家として登場して後に「不滅軍隊」を率いる女将軍となる謎の美女アトゥサの物語が進行します。

第1弾のときもそうでしたが、やはりKashvaやペルシアの物語の方が精彩があっておもしろい。ムスリムたちの物語では、ムハンマドの幼年時代やムハンマド死後の話の方がおもしろいと思います。やはりムハンマド本人を描こうすると、無意識のうちにも何重ものフィルターがかかってしまうのかもしれない、とつい邪推したくなってしまいます。

ムハンマドの死後、イスラームの指導者となったアブ・バカールが瀕死の床にあるとき、その後継を託されることに
なるウマールが見舞にやって来て、その場の重苦しい雰囲気をやわらげたいと思い、ムハンマドが生前、信者たちに喜捨を進めたときに、自分がアブ・バカールと張り合った話を披露して、その場にいた人々の笑いを誘う場面なんかはなかなかいい。ムハンマド本人も、こんなふうにさりげなく一人の人として描かれていればもっとおもしろかった
のに、と思うけれど、やはりそうはいかないものなのかもしれません。

それにしても、中学や高校で世界史を習ったときに、イスラームの興隆については「片手にコーラン、片手に剣」と
教科書に書いてあったことを思い出しました。なんであれ宗教の布教に政治的・軍事的なものが絡んでくるのは当然でしょうが、イスラーム普及の歴史は実にあからさまに軍事的征服の歴史でもあったのだなあと思います。そして
そういった軍事的征服が聖戦として称えられ、おそらく今日でも高く評価されている……と思うと、「イスラームは本来平和を望む宗教である」と言われてもなあ、という気がしてしまいます。信仰心がなく、なにも理解していない第三者から見ると、もうひとつ説得力に欠けるというか……。

この巻でムハンマドは死んでしまったのですが、たぶんこのシリーズはまだまだ続くんでしょうねえ。チベットから
ペルシアの首都に舞い戻ったものの気の触れてしまったKashvaは(実はずっと前からおかしくなっていたのです
が)、意気揚々と幻想の友らとともにシリアへ向かい、そのKashvaとチベットではぐれ、その後やはりペルシアの首都に戻ったものの伯父のマーシャともはぐれてしまった少年ゼルゼスは、ホスロー二世の三人の姫のひとりで、姉と妹が続いて即位したものの間もなく暗殺されてしまった生き残りの首都に身を潜めるトゥーランドット姫と出会い……という具合で、まだ続きがありそうです。最近三部作とかそれ以上のシリーズものがちょっと流行っているようだし。おそらく来年のラマダン前に第3巻が出るのでしょう。

この本の作者は、前に紹介したファンタジー『ニビル』シリーズ(こちらもつい最近第2巻が出たばかり)の著者でもあります。一冊だけでもかなり大部のシリーズものを並行して書いているとは、相当な力業。西ジャワ州のスムダンに住み、著作のかたわら農業にいそしんでいるそうです。


題名:Anak-anak Merapi(『ムラピの子どもたち』)
著者:Bambang Joko Susilo
出版社:Republika Penerbit (2011年)


$インドネシアを読む-merapi

2010年10月から11月にかけて大噴火を起こし、周辺地域に大きな被害をもたらしたムラピ山。死者は300人を超えました。ムラピ山の守り人であったマリジャン氏も亡くなり、祈りを捧げているような突っ伏した状態の遺体が自宅で発見されて話題となったのも記憶に新しいところです。

この本は、被災したある一家の物語。避難所などに取材に行った著者が、多くの被災者の体験談をもとに書いた
小~中学生向きの小説です。

噴火前、普段は人里で見かけない動物たちが山を降りてくる姿が見られるようになり、噴火の予兆が高まっていきます。政府からの避難勧告が出されても、避難することを拒否したり、なかなか避難に踏み切れなかったりする住民
たち。やがて予想を超える規模の大噴火が起き、村々は一夜のうちに廃墟と化してしまいます。

小説なので、どんなふうに物語をふくらませるかは作者次第なのではありますが、ちょっとファンタジー的なものを
へんなふうに入れてしまったなあという感じ。フィクションにしても、もっとていねいに事実を追っていくというスタイルにした方がよかったのに。

主人公三兄弟の長男ユディスティラが怒りのあまり巨大化するとかって、ちょっとやりすぎじゃないですかね。そういうのを見たと証言した人が実際にいたのかもしれませんけど。

このユディスティラに、噴火前に一度、それから噴火後の避難所でもう一度、見知らぬ人物が近づいてきて激励の言葉をかけていきます。どこかで見たことがあるような、いかにもカリスマティックな威風あるその男は、噴火前に
学校でユディスティラに声をかけてきたときの姿は初代大統領スカルノを思わせる姿で、校長先生に用があるからと言って校長室に入っていったはずなのに、校長先生はそんな人は来なかったと主張します。

そんなふうに、ユディスティラが異能をもって将来大物となる伏線が張られていくのですが、このままでは、世に不正が満ち満ちたときに正義の王が現れてジャワ帝国ムラピ山上に出現(あるいは復活)するという伝説が現実となる、
「壮大なファンタジー」に化けてしまうのではないかと懸念されます。この本は、シリーズ化されてまだ続くらしいし…。

それにしても、インドネシアの子ども向きの小説が露骨に説教臭くなってしまうのは、避けられないことなのでしょう
か。

“Kambing Jantan”などで人気作家となったRaditya Dikaのような若い世代の人が書いたものは、小説ではないけれど、ポップでなかなかおもしろかったりするんですけどね。(Raditya Dikaについては、またあらためて書きます。)

いわゆる「ものの分かった大人」が子ども向けに書いたものは、上から目線が鼻につきすぎていただけない……
という傾向のものがインドネシアには多いような気がします。それに、この小説の場合なんかは、子どもがこんなに理路整然と立派なことを言ったりしないだろ、というような非現実的セリフまわしが多く、ますますへんな方向に
ファンタジーに傾いてしまっているようです。

題名:Saga no Gabai Bachan (Nenek Hebat dari Saga)佐賀のがばいばあちゃん
著者:島田洋七  Indah S. Pratidina 訳
出版社:Kansha Books (Mahda Books) (2011年)


$インドネシアを読む-ばあちゃん

島田洋七著『佐賀のがばいばあちゃん』のインドネシア語版です。

島田洋七といえばB&B全盛期のころしか知りませんでしたが、こんな本を書いていたんですねえ。思わず「昔は
よかった」といいたくなるようなお話。貧しくても明るく、たくましく、というインドネシアの多くの人々にとっても身近でわかりやすいメッセージの込められた本です。

小学校の運動会のときに、家族にだれも来てもらえず、教室でひとり、ごはんに梅干しに紅生姜のお弁当を食べようとしている主人公のところに担任の先生がやって来て、「お腹を壊したから、お弁当を取り換えてくれないか」と言っ
て、エビフライやソーセージや卵焼きの入った豪華版お弁当と取り換えてくれる場面なんて、ついホロリとしてしまいそうです。

こういう先生、今でもいるのかなあ。

主人公が小・中学生だったころ、つまり1960年代の話なのですが、20年前に原爆で破壊された町、広島が、そのころには佐賀の子どもたちにとっては憧れの大都会になっていた、という部分にもなんだか感慨深いものがありました。原発事故に見舞われた福島は、20年後にはいったいどうなっているんだろうか、と。

この本は英語版からではなく、日本語の原書から直接インドネシア語に翻訳されています。訳者は、私が以前、日本で翻訳書を出したことが縁で知り合った編集者で、一ツ橋大学で修士号を取得し、今では編集の他に翻訳・通訳者としても活躍している才媛のIndahさん。素直で読みやすく、メリハリのある、素敵な翻訳だと思います。