存在の謎2

真理は、君がそれについて考えている謎としての真理は、いいかい、他でもない、君自身なんだ。君が、真理なんだ。はっきりと思い出すために、しっかりと感じ、そして、考えるんだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


じ~んとくる。

これが、この本の最後の言葉だ。

君自身が真理なんだ。

こんな言葉を14歳の時、投げかけられてもよくわからないと思う。

でもきっと、何と言うか、背筋が伸びるような厳粛な気持ちになるような気がする。

自分とは、人間とは、よくわからないけれども、自分が考える以上の何かなのではないか、とも思えてくる。

人生へのエールをおくられて、この本を閉じるとき、また振り出しに戻って、考えるってどういうことだろう…
と再び考え始めようとしている。

終わりなき問い。

問いそのものと化す。

自分自身が真理であることを想い出すために。

~完~

これまでブログに訪れお読みくださった皆様、ありがとうございました。

明確な意図なく、気づいたら書き始めてしまっていたので、最後までたどり着けるか気が遠くなるおもいでした。

何度も繰り返し読んできたはずなのに、初めて接するように感じる言葉があったり、その言葉を自分のなかで転がしてみては、さまざまなおもいに駆られました。

感じてること、考えていることの万分の一も表現できていないかんじもあり、その余韻を感じていただけたのであれば幸いに存じます。

考える精神のリレー。
池田さんの本が出会うべき人に届きますように願いながら「14歳からの哲学」を読む、を終えます。

  存在の謎2

「存在する」ということは、奇跡だ。存在する限りのあらゆることが奇跡であり、したがって謎なのだという絶対の真理を手放さないのであれば、君は、これからの人生、この世の中で、いろんなことがあるけれども、悩まずに考えゆくことができるはずだ。そのためにこそ、人間には、考える精神があるんだ。考えたいけどうまく考えられない、そういう人だって、かまわない、生(ある)と死(ない)の謎を感じて、その謎を味わいながら、大事に人生を生きてゆけばいい。真理は、すべての人の内に等しくあるものだから、そのことを信じてさえいるなら、大丈夫だよ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


あぁ、涙が出てくる。

生と死の謎を味わいながら大事に人生を生きてゆくことができれば、悩まずに考えてゆけるよ、と励まされいるかのようだ。

ほんとうに、あらゆることが奇跡で、そして謎である。

真理は、すべての人の内に等しくあるもの

そうだ、そうなんだ。

けれども、それを忘れてしまっている。

私たちは、生まれ落ちたその時に、忘れてしまったことがある。

生きてゆくなかで、その忘れてしまったことを想い出してゆかなければならないのだ、きっと。

想い出してゆくことが、生きるということなのかもしれない。

それが、万人に託されていることなのかもしれない。

~つづく~
  存在の謎2

ところで、この本の方は、無事に終点に近づいた。冒険者だなんて、とてもとても、それどころか何が何だかよくわからなかった。そういう人の方がずっと多いだろう。全然かまわないじゃないか。わからないことをわかったふりするより、わからないとわかってた方が賢いんだって、もうわかってるものね。
日常の光景から宇宙の果てのことまで考えきて、さて、君は、再びこの日常、この人生を、これからどんなふうに生きてゆくだろうか。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


この本を14歳の時に読んでいたら、と思うことはあるが、この本を読むとき14歳の眼で読めていただろうか。

世に出て分別がついた後に読むのと、中学生だった頃に読むのとで、どう違うだろう。

中学生の頃の純真な心に問いかけられてきたら、きっとまっすぐに、こう答えられる。

わからないってわかること、ここが始まりなんですね。

わからないから考える。

考えて考えて、善いことしかしたくないって思える人生を生きてゆきたい、と。

しかし、何十年も生きてしまって、世俗の垢まみれになって、善いこととは何かを問うことも忘れてしまった。

そんな自分に、内なる14歳はまっすぐに言ってくる。

何歳になったって、いつでも今から始められるのよ。

だって、今しかないのだから。

いつだって、今があるだけなのだから、と。

~つづく~
  存在の謎2

君が普段それを自分だと思い込んでいる自分とはまったく違う奇妙な自分が、そこで夢を見ていると気がついたなら、ここではヒントだけをあげよう。君が夢を見ているのではなくて、夢が君を見ているんだ。これがどういうことなのか。あとは自分で考えていってごらん。夢を考えるのには、得体の知れない面白さがあって、冒険者にはたまらない魅力のはずだ。もうひとつだけヒントをあげると、それは、宇宙というものそれ自体が、自分がみている夢だからなんだ……。
まあ、いきなりここまで考えられはしないさ。でも、これは真実だ。興味があるなら、古今東西の内的世界の冒険者たちが記し残した書物を繙いてみるといい。誰もだいたい同じようなことを、真実として見出しているのを知るだろう。冒険者として生まれてついた自分の運命を選んだ君も、必ずこの道を辿るはずだ。道に迷った時には、常に原点としての謎、「自分がある」という当たり前の謎に立ち戻って、着実に、しかし大胆に、進んで行ってごらん。むろん、終点なんかあるわけないとわかるね。だからこそ、冒険者なんだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


君が夢を見ているのではなくて、夢が君を見ているんだ

はて?
夢が主語ですか!

宇宙というものそれ自体が、自分がみている夢だから

こちらの方は、何となくわかるような気がする。

眠っている時に見る夢だけが、夢なのではない。

きっと、眠りから覚めて(と思って)生きているこの現実が、果たして夢でないかどうか、誰にもわからないのではないかしら。

そんなにこの今生きている現実って確かなものなのかしら。

現実って何なのかしら。

考えるほどにわからなくなる。

~つづく~
  存在の謎2

考えるということには果てがない。謎に果てがないからだ。謎に果てがあったら、それは謎ではなくなってしまうのだから、謎というものには果てがないんだ。でも、謎に入口はいたるところにある。「ある」ことの当たり前に驚くなら、「ある」ことのすべてが謎の入口になっているんだ。
たとえば、SFを読まない君だって、毎晩夢は見るだろう。君は、あれが非常に奇妙なものだということに、気がついているだろうか。むろん、夢の中身は十分に奇妙なものだ。空を飛んだり、お化けから逃げたり、動物や他人に自分がなっていたりする。でも、もっと奇妙なのは、その奇妙なことを奇妙なことだと、夢の中では決して思わないということだ。奇妙なことは、夢を見るというそのこと自体なんだ。
夢の中で他人になっている君は、それを奇妙にも思わず、その他人が自分だと「わかる」。どうして、「わかる」のだろう。もしもその他人が自分であるなら、では、自分とは、その他人なのだろうか。それとも、その他人であると「わかる」自分なのだろうか。他人が自分であるとは、どういうことなのだろう。「自分」とは、いったい誰なのだろう。ここにも、「自分」の謎が、顔を出しているとわかるね。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


その奇妙なことを奇妙なことだと、夢の中では決して思わないということだ

まったくだ。

夢の中で、これは夢だ、自分は夢を見ているのだ、と気づいてみたい。

奇妙なことは、夢を見るというそのこと自体なんだ。

なぜ、夢というものを見るのだろう。

夢を見るとは、どういうことなのだろう。

それがわからないから謎なのだけれど。

奇妙と言えば、私たちは必ず眠る。

疲れを癒すためでもあるし、徹夜は何日も続かずに眠ることになる。

毎日繰り返しているこの「眠る」という行為、これはいったい何だろう。

眠るとはどういうことだろう。

眠っているときに見るのが夢というものなら、起きているときに経験している様々なことは、何なのだろう。

夢が奇妙であるなら、起きているときに経験する様々なことだって奇妙と言っていいのではないだろうか。

果たして夢だけが奇妙なのだろうか?などという考えが湧いてきた。

どこから、こんな奇妙な考えが湧いてくるのだろう。

~つづく~