日々是仏教

日々是仏教

在家仏教徒の拙い智慧のブログです。

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「生き仏」になる愚か者という言葉があります。

これは、死を悟って不死の境地を見ていない、つまり肉体が死ぬ前に一回死んで再び蘇っていないのに、「ブッダ」というアイデンティティをかぶった愚か者になるなという戒めです。
道元は、一切衆生無仏性と言いました。

しかし、衆生に仏性があると信じている間は、有無の有に執着した、煩悩の中にいるということです。

何故「無」仏性と言ったかというと、「衆生」という観念と、「仏性」という観念をた脱落したからです。
ブッダは、博学に優れるものと、徳行に優れるものと、博学と徳行に優れるものがいると説きました。

このうち一番簡単なのは、博学に優れることです。

そんなの少々のお金をかけて経典や仏教の本を買って読んだり、ポッドキャストを聴いたり、お坊さんの説法を聴いたりすればいいだけだからです。

二番目に難しいのは、徳行に優れることです。

これは、厳密に戒めを遵守して、死を厭わず必死で実践しないことには不可能です。

一番難しいのは、博学と徳行に優れることです。

死ぬほど仏教を正確に勉強して、毎日些細な悪も行わないで死ぬ気で実践しなくてはなれません。

どれを選びますか?
生きていたって、どうせ死んでしまうので、つまらないものなのです。

それが、自我の思い通りにならないという、「つまらない」という苦しみです。

生きている生命が死なないという道理はありません。

なので、生きていることは執着に値しないのです。

その執着に値しないという感覚が、「つまらない」という気持ちです。

それが、私達の根本にある怒りです。
私は、ブッダの教えに出会ってから幾年過ぎました。

まあその間ずーっと「修行」をしてきました。

しかし今日ようやく「修行」という意識を捨て去っちゃいました。

火が消えたからです。

大火事の家が、静かな空き家になってしまいました。

ふと疑問に思うのは、今まであんなに莫大な量のブッダの教えの「知識」を集めた意味はあったのかなあ、ということです。

ほぼ意味がなかったです。

ただ日々好い日だと思って瞑想していれば良かったのに。
動物的本能がなければ、智慧とブッダへの清らかな信頼は生じないことでしょう。
ブッダの教えについて考察するのは、重要なことです。

何故なら、ブッダの教えの考察がないと、真の確信に変わらないからです。

ちょっとした時に経典の言葉を思い出したり、仏教の本や説法で知った知識をよく考察するのです。

色々な方々が、これをやっています。

例えば私が今日行ったのは、「欲望を押し殺す」です。

欲望がたちが悪い代物なので、欲望を押し 殺して、潰して行きました。

すると、忍耐力と智慧が得られました。

すると、たった1日で欲望が忍耐力に変わりました。

動物的本能を変化させたのです。

それを行ったきっかけは、飲み物に対する欲望が起こった瞬間、経典にある、「歯を食いしばり、舌を口蓋に押し付けて、欲望を苦しめる」という教えを思い出したからです。

それで今日1日ちょっと成長です。

しかし、智慧の浅い段階で教えを考察し過ぎると、過去の私のように、意味不明な無明に陥る可能性があります。

そういう時は勉強を一旦我慢した方がいい。

やたら勉強すればいいわけでもなく、全然勉強しなくてもいいわけでもない、というのが中道です。

それから私は今日世界一高い大仏へ観光に行きました。

まあ日本の大仏ですが、やはり仏教の言葉を読むと、心が落ち着くのですね。

そしてそこに書いてある言葉をよく考察して、ふとアメリカの先生の「カルマのみが知る」という言葉を思い出したのですね。

カルマはやはり行為と捉えると簡単なのですが、私が今までの人生で行ったあれやこれやの結果、大仏の中で仏教の言葉を読んで、心が落ち着いたのです。

しかし一つ文句を言うと、ブッダ入滅が英語で「death(死)」となっていたので、涅槃に入ったのであって、死んだわけではないと文句を言いたかったのです。

なので、ちょっとした時に教えを考察すると、ちょっと成長します。