アイドルはいつからその成長を見守る存在になったのか | 寒い季節は暖かくしなきゃね
アイドルは、いつからその成長を見守る存在になったのでしょうか?

育成ゲーム的。というか、そのアイドルが駆け出しの頃から応援し、その成長と成功を同時体験していく対象。だから、最初は歌やダンスが下手でも良く、可愛くなくても良いし、垢抜けてなくても良い……そうした"芸能"としてのレベルの低さを、アイドル側も視聴者側も同意したところからスタートする産業=アイドル?

それにより、スタート地点は単なるド素人であることが許され、近所のあの娘が、クラスのあの娘が、明日のアイドルになるチャンスがある。それにより、アイドル産業としての底辺(裾野)は広がり、ご当地(地方)アイドルから地下アイドル、単分野に特化したアイドルなど、もはや自称アイドルが星の数ほど存在する。

そうした相関関係によって、アイドルとは、どう成長するかを見届ける対象であり、その成長や成功の促進剤として“応援者の熱意”という介在が許容されていく。それが単なる青田買いだとしても、無名の頃から支援することによるタニマチゲームによって、その市場が支えられている事実もあります。

●過去におけるアイドルの存在

確かに、アイドルの歴史において「アイドルは可愛いだけ」という蔑みは確実に存在しました。アイドル勃興の'70年代前半は、歌謡曲/演歌というテレビ歌謡の分野、フォークソング/ポップスへの振興に伴い、歌手は芸能界の中でも「芸の才能」がしっかりと問われる存在でした。それこそルックスよりも歌唱力重視。そんな所に「可愛いだけ」と言われた、岡崎友紀、麻丘めぐみ、浅田美代子、天地真理などがアイドルの原点として登場。彼女らは、時の大人たちからは決まって「下手くそ」と罵られ、「可愛いだけの人気=アイドル」と卑下されてきました。

当時、自分の幼い頃の記憶の中では、「アイドル」という言葉は、可愛いだけで歌唱力が無いのにいっぱしに歌を歌い、主役を射止めたりする疎ましい存在という蔑称とも受け取れました。多くの大人はそういう使い方をしていた気がします。

しかし、TV番組「スター誕生」などの存在で、一定量の歌唱力が問われ、最終審査まで残るにはそれなりの力量が必要となり、すでにその段階での成長過程を同時体験することになります。デビューした段階では、「あの娘がついにデビューしたか」という感慨はあれど、下手なくせに偉そうに歌いやがって……という蔑視感は薄れていった気がします。

そうした存在が、山口百恵であり岩崎宏美であり、後のピンク・レディーなど、しっかりと歌唱力のあるアイドルが、その容姿や愛嬌を含めた合わせ技でヒット曲を連発していきます。スタ誕出身者以外のザ・リリーズやキャンディーズなども、しっかりとした歌唱力やハーモニーを武器に、アイドル産業を牽引していきます。無論、それでも岡田奈々や大場久美子など、やや危うい存在もありましたが、アイドル=下手くそという一方的な蔑称とは捉え難い時代になっていきます。

'80年代ともなれば、松田聖子・中森明菜・河合奈保子など、新時代=アイドルポップスとしての歌唱力を身に付けたアイドルが登場してきます。細かい話をすれば、彼女らもデビュー当時、ヒット連発時期、円熟期に至る中で、歌唱方法を含めた成長を垣間見ることは可能でした。とはいえ、ファンが「聖子はワシが育てた」という目的で応援していたかと言えば、大半がNOなはずです。結果として、マンネリ化からの方向転換によるチャレンジがあったり、スキャンダルに見舞われてイメチェンをしたり……ということでの成長はあれど、現在のアイドルのような成長の同時体験を目指した存在ではなかったでしょう。

'85年になると、おニャン子が出てきます。
たぶん「昨日までの素人が今日からアイドル」というノリは、ここが起源かと思われます。当時は「成長を見守る」という意識は、そこまで大きくなかった気がします。高嶺の花のアイドルが、等身大アイドルになった価値観の変移や、それにともなう「クラスの娘がアイドルになれる」という新しいサクセスストーリーに興奮したものです。さらに、ファン層が今のアイドルファンほど年配ではなかったからだと思います。

それでも先代の聖子・明菜・奈保子、続く堀ちえみ、小泉今日子らの功績によって、「プロのアイドル」という目標値・商品価値が高いものになっていたことも事実です。だからこそン億円プロジェクトとしてのセイントフォーや少女隊が存在し、ポスト明菜/聖子としての本田美奈子・松本典子が活躍し、南野陽子、中山美穂、などの楽曲も、高品位なアイドルポップスとしてしっかりと根付いていきます。その後、アイドルを見て育った自覚世代としてのモモコクラブ軍勢が、'80年代後期のアイドル業界を担っていくのです。

ここにも、大なり小なり「成長を見守る・同時体験していく」という気質が無かったかと言えば嘘になります。しかし、メジャーシーンのアイドルたるもの、ベストテンのランクイン=それなりの楽曲と歌唱力が求められる側面もあり、それほど緩く「下手でも許してニャン♪」というノリがまかり通るものではなかったように思います。そうした完成度は、WINKに受け継がれていき、'70年~'80年代のアイドルの帰結点になっていったのかもしれません。

●成長型システムに至る分水嶺

'90年代になると、再びポストおニャン子的なノリ=素人あがりのアイドルを愛でていく……というビジネスを今一度復興させる風潮になります。乙女塾や桜ッ子クラブがメジャーシーンでの立役者。乙女塾は名が表すとおり、アイドル養成所のようなノリであり、文字通り成長を見守っていく雰囲気は満点。

一期生・二期生という序列と、その中からCoCoでデビュー組、続いてribbonでデビュー組、四期生以降でQlairでようやくデビューできた……というシナリオは、キッズからBerryz工房でデビューできて、続いて℃-uteでデビューできて……という方式の原形とも取れます。

桜ッ子クラブも同様に、それほど仕事がない駆け出しアイドルが、徐々に仕事が増えていくことを一緒に喜ぶノリは、現代のアイドル成功物語のそれに近い感じもします。

続いて東京パフォーマンスドールや、南青山少女歌劇団、制服向上委員会など、会えるアイドル……というか会いに行かないと見れないアイドルがマイナーシーンで猛威を振るいます。マイナーとは失礼ですが、TVを中心とした芸能に対する言葉であり、決してメジャー(良い)vs.マイナー(悪い)というニュアンスではありません。

ただ、こうしたTV媒体に依存せず、インディーズシーンとも言えるアイドルビジネスの有り様は、それこそバンド業界のインディーズの存在にも似ていました。アマチュアがプロへの登竜門をくぐるために、ライブハウスで客を集める、というビジネス手法は、アイドル業界でも実現可能だったわけです。それがすなわち地下アイドル産業……と定義してしまうのはやや乱暴過ぎるかもしれませんが、分野として確実に定着していきます。

'90年代は、このような状況に輪をかけてアイドルが多様化していきます。グラビアアイドルや局アナやスポーツ選手、お天気お姉さんがアイドル扱いされるなど、その言葉の定義はひたすら広がっていきます。「歌うアイドル」の割合が減少し、むしろアイドル特有の若年少女は、安室奈美恵やSPEEDなど、アーティスト系として存在していきます。また俳優兼アイドルのような観月ありさや宮沢りえ、広末涼子などもアイドルポップスらしい楽曲をリリースしていきます(どちらかと言うとGirls Popというジャンルかもしれませんが)。

これにより、アイドルの定義が今一つ定まらないところに、メジャーシーンで再び「育成形アイドル」が打ち出されます。モーニング娘。の登場です。当初からメジャーデビューをかけたドキュメンタリーによる仕込みは、究極の劇場型(視聴者巻き込み型)とも言えますし、そのスタイルこそ「現代のアイドル」というアピールに成功していました。

'90年代に「歌うアイドル」の市場が崩壊していた分、アイドル産業の再興にはこの(モーニング娘。の)スタイルしかないと思われるくらい、見事に時代にマッチしムーブメントを起します。逆に、育成済みで商品力が高いアイドルを唐突にデビューさせることも少なくなります。これによって、「育成を同時体験させてファンを巻き込む」というビジネスのひとつの手法(売り込み方、プロモーション方法)が、そのジャンルの定義や存在意義となってしまいます。このやり方は、過去から存在した「手法」ではありますが、アイドルという言葉の意味(定義)にまで昇華してしまうのです。

もちろん、これは誰の責任でもありません。つんくさんがそこまで意図したわけでもないでしょうし、ハロプロとしてのシステムが悪いというつもりもありません。これらはあくまで一例に過ぎず、同じような手法でアイドルをビジネスのツールとして利用し続けた業界全体の責任だと思われます。

●プロモーション構造≠そのジャンルの在り方の定義

今回、何を問題視しているのかと言えば、商法としての育成形スタイルが、アイドルのすべてだと定義してしまうと、おのずと限界やゴールを定めてしまうことになる、ということです。今のアイドルの魅力は、未成熟な素人少女を、どこまでキラキラしたスターにするか。ある意味でゲーム的。ただ、ゲーム的であればあるほど、ブレイクに失敗した段階で成功ルートから外れてしまい、スターダムにのし上がることは難しくなります。

ここでの成功・スターダムとは、TVの音楽番組やゴールデンタイムへの頻繁な出演や、アイドル名の冠番組。オリコン1位の連発や紅白出演。ホール級地方コンサートツアーの終着点は武道館やアリーナ、あるいはドーム。

こうした成功ルートに乗れない=ゴールインできないと感じてしまうことは、デビューからの年齢やプロモーションの失敗などで、いくらでも散見できます。かつて、あるアイドルグループが「デビューして三年で武道館ができなきゃ、一生無理」と言われたらしいです。あながち冗談ではないと思えてしまうのは、先の「アイドル=成長物語」という定義が根付いているからでしょう。

苦節5年、10年で武道館をやるアイドルは存在しない……とアイドル産業(シーン)が自ら自己否定してしまっていることに閉塞感は感じないのでしょうか。二十歳前にブレイクしなきゃ、アイドル界の御局様呼ばわりされ、とっとと卒業(引退)しなければならない状況で良いのでしょうか。

稚拙な例えですが、何となく高校野球の「目指せ甲子園出場~優勝!」の盛り上がりが最大のピークで、そこですべての勝敗が決まる盛り上がりに似ている気がします。優勝できるのは一握り。準優勝や敢闘賞、MVPもいるでしょうけど、毎年その世代はそこで燃え尽きます。その後の大学進学かプロ入りか……ということはもうどうでもよく、次のピュアな世代が新人として活躍するのを見守るゲームがスタートする。

いつまでもアマチュアの世界の出来事を追いかけているだけで、こうした競争がいつまで続くのだろうか、なんて思ってしまうのです。そもそもアイドルとは、競争=ゴールを目指したゲームなのでしょうか?

別にドリ娘。を見たいわけじゃないのですが、「成長が楽しみ」「下手でもOK」ということにアイドルの全存在意義がかかってしまうと、そこに乗れない人はアイドルのどこを楽しめばいいの? と思ってしまうのです。

例えば、イナイレ以降にベリにハマったファンに対し、古参ファンが「オマエにベリの何が分かる」というようなことを言っていました。℃-uteも、岡井ちゃんの踊ってみたから入った者はニワカ扱い。苦節ン年を分かってねーだろ、と。いや、これが極一部の事例であり、すべてではないです。ベリファン、℃-uteファンにそこまで排他的なノリはないと思っています。

けど、こうした事例はどのアイドルにもあり、古い話を持ち出されても、そりゃ分からないです。似たようなことは初期の娘。もにありました。身近の話だけかもしれませんが、4期・5期から入ったファンの中には、そうした古参のノリに合わせ切れず、タンポポやベリに流れたファンも見ていますし、その後に娘。ファンになろうとして成り切れず、結局声優アイドルに活路を見出した人もいます。最近ではAKBですら、劇場から追いかけている古参と、最近の新参・ニワカが区別されているようです。

問題はこうした状況……古参ほどエライ=無名の頃から支援してきた/皆が見向きもしない頃から成長を見守ってきているんだ……という「成長ゲーム」のプレイヤーならではの選民思想が、すべてのアイドルの定義と共に肯定されてしまう状況。

このようなファンの古参・新参問題は、どんなところにもあります。それこそ、かの有名なサザンオールスターズですら、「TSUNAMI以降世代」というのが確実に存在します。コンサート会場でも、デビュー当時(勝手に~や思い過ごしも~など)のサザンらしい楽曲にはまったく乗らない(中には座っちゃう人もいる)。だからといって、新参だニワカだと敵視することもないし、デビュー当時の苦労を知らないからファン失格だ!と排斥することもありません。

ただアイドルの場合は、新参の肩身が狭く、先導してくれるオタ友でもいない限り、ニワカ一人で現場に参戦するのは厳しいのです。「だったら自分が古参になれる新人を探そう!」というノリも手伝ってDDをやっているアイドルファンもいます。それでトップオタになる目標と、お目当てのアイドルちゃんがどんどん有名になること。ここを重ね合わせているファンもいます。

「それでよいのか」ってこと。
同じ話を何度も繰り返しているようですが、この問題は「アイドルの存在意義が育成にある」という定義に裏打ちされてしまう反応であり、現象であるってことです。

このあたり、何とかならないかなー、という嘆きです。

●どう接することが楽しいのか、そんなことを考える段階でもう面倒臭い

自分は、もはや純粋なアイドルファンじゃないと思っています。'70年代からアイドルを見続けてきたし、それなりの見識もあると自負していました。ただ、今は無理です。ハローのプロ根性に食らいつくので精一杯。下手より上手いほうが良い。9期や10期の成長楽しむのも一興だけど、歌手なんだから、最低限の音は外さないでほしいと思いますし。

実は、自分の周りにも、自称アイドルは何人もいます。地方の地下アイドルをやってる知り合いもいます。実際にそれ系の事務所に入ってる娘もいて、小さい小屋でたまにライブをやったり、しっかりアイドル活動しています。

そうした現場に行ったりすると、若い娘がみんなアイドルを謳歌している。ただ、中にはプロ意識が希薄というか、「目指せモー娘。プラチナ期」なんてことじゃなく、いかに目先のファンに媚びれるか、ということに腐心している娘も多い。最低限のボイトレやステップレッスンもせず、マイクの持ち方もままならず、楽譜を読めるようになるとか、「ここは8で取ってるの? 16で取ってるの?」などの話に付いていこうともしない。そのかわり、いかに「萌え萌えニャン♪」の小首のかしげ方が可愛いくアヒル口ができるか……の探求には余念が無い。

今のアイドル、そしてこれからのアイドルは「そこなのかなぁ」と思いつつ、それ自体は否定したりはしません。歌もダンスも上達しないようですが、それなりに人気はあるようです。固定客も「下手なのは大目に見る」というノリっぽい。ゆくゆくは上手くなれば、それは楽しい余地なわけで、互いに共犯関係が成立しています。だから文句を言う筋合いは無いと思っているのですが、アイドル業界の裾野がこれでよいのか、という疑問もあるわけです。

いやそれとも、メジャーシーン型のアイドル(いわゆる大手事務所系)と、インディーズ系で、全く別の文化が形成されていくのでしょうか。それこそ前述のインディーズ系バンドのシーンのように、ライブハウスだからこそできる展開、あえてメジャーには行かない気概で活動を続けるアイドルシーンにセグメントされていくのか(いるのか)。

自分は、そこまで俯瞰して実情を見ているわけじゃないので、大局的に分析はできません。ただ、すでにそうした住み分けが進んでいるのかもしれないとすると、であればこそ冒頭から述べている「育成ゲームとしてのアイドル」という風潮はどうにかならんもんか、という課題は残るわけです。

どうしたもんでしょうかね?