最近、寺社仏閣を訪ねる機会が増えました。
そこで聞いたり見かけたりする言葉はとてもいい言葉です。
普段何気なく使っている言葉には仏教からきた言葉がたくさんあることを知りました。
今日は「あきらめる」。
漢字では「諦める」と書きます。
仕方がないと断念するというネガティブな言葉ですが、別な解釈があります。
それは、明らかに見極めるという解釈です。
困難なことに直面しても、すぐに断念せずに、明らかに見極め、真理を見つけることが大事ですね。
人に教えてあげたい仏教語1より

男の子はプラモデルが好き

女の子は人形が好き

つまり

男の子は未完成のものが好きで

自分の好みに作り上げる過程を楽しむ

女の子は自分好みに完成したものを欲しがる

男の子は完成してしまうと飽きてしまう

女の子は手に入れると次のものが欲しくなる

どっちもどっちかな
「滅茶苦茶」「目茶苦茶」「無茶苦茶」どれも同じ意味です。

実はどの漢字も当て字なのです。

仏教後の「無為」を意味する「無作」からきた言葉で道理に合わないことだそうです。

でも「お茶を出さない」、「苦いお茶を出す」ことが非常識という解釈が好きです。

しゃかりき、シャカリキ…。

漢字では「釈迦力」と書きます。

お釈迦様が仏教の教えを広めようと

東奔西走したことから

何かに対して一生懸命打ち込む様子を

「釈迦力」と言うのだそうです。

ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ大統領のことです。

ほとんどの方はすでに知っていると思いますがあえて書かせていただきます。

私の心に響いたのはリオ会議での次の言葉です。

「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。」

 

「ハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。

 

そして最後にこう締めくくっています。

「発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。」