2013/08/17 ④ | only child のブログ

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勉強会後のお茶をした後。
一人で別の喫茶店でその日学んだことや気づいたことをいろいろ振り返ってました。
メモったりしながら。


んで、全然関係ないんだけど、気になる人と話したくなった。
だから、「今から飲みにいかへん?」って誘おうかと思った。
「急やから悪いなぁ,」とか、「こないだご飯行ったとこやし」とか考えたら、また思考に走るからタロットに聞いてみようと思いました。


んで、その場でリーディングしてみて思ったのは、やっぱり思考に縛られてるって読めたんですよね。
読めてないのかもしれないけれど、僕はそう思った。



そこから気づいたのは、僕はある程度誘うことはできても、例えば急に誘って断られることが嫌なんやということ。怖いって感じてる。


誘ってみて最初から無理なら、自己肯定感が低いから「やっぱりあかんわ」で済んでしまうし、ある意味問題ない。そこで終了しちゃうから。


でも、一回行けてしまうとせっかくうまく行くものも、ダメにするまで思考で埋めつくす。

自己肯定感が低いから、下へ下へと引きずり込んでしまう。

幸せが欲しいんだけど、うまくいきたいんだけど、どうしてもうまくいきたくない自分の存在が姿を現す。




たしかにわざわざ断られる必要もないし、迷惑かなと思って誘わないのも大切やけど、僕はそこじゃなくて、たまたま都合が悪くていけないこともあるって思えないところがあるんだと。
人に対する気遣いが、本当は自分が嫌われたくない、不安になりたくない、傷つきたくないってところから来ているんだと。




「断られる」=「嫌われた」=「否定」って思っているんです。
予定があったり、相手にも都合があるということを、頭では分かっていても、やっぱり全然わかってない。
どんな場合でもオッケーの返事がほしいんだなぁと思いました。
どんな場合でも断られたり、返事がないと嫌なんだなぁって。
そりゃあ、だれでもわざわざ断られたくないと思うんだけど、極端に嫌なんですよね。そういうところに敏感すぎる。




それが僕特有の「思考」の始まりなんやなぁ。
そっから、もう嫌になったんかなとか、しつこいから嫌われたんかなとか、もしかしたら他の人とも遊んでるんかなとか。
どんな風にでも考えてしまって、不安に不安を重ねて、自滅していくんですよ。


例えたまたま一緒にいれても、いれなくても。
例えたまたま誘ってオッケーでも、断られても。
どっちにしてもその後不安になるんですよ。
あぁ~もう終わりかもしれないって最終的に。


Yesの返事が続けば続くほど、いつかNoって断られる時が怖いんだとおもう。
前はオッケーやったのに、今回は無理ってことは、気持ち変わったんじゃないかとか気になって、そっから思考がまわり出すんです。
でも、僕はわかってるんですけど、余計なことを考えすぎるんです。
うまくいけばいくほど、不安になるんです。


これは今までの恋愛でもありました。
相手の気持ちを確認してしまうとか。
ホント邪魔くさい男なんです。
でも、気が済まないんですよ。不安だから。
もしかしたらこの間が最後だったかもしれないって。

いつも最後かもって。


これも見捨てられるかもっていう不安が幼少期にあったんだと、今ならわかるけど、わかったところで自滅するだけ。



見捨てられないんやってことをたくさん積み重ねないと、この先でまた同じ問題にぶつかるなぁ。
根本的な問題として、やっぱり両親からの愛情不足なんやな。
ちゃんと受け取れんかったんやな。
愛着障害の症状そのまんま。




やっぱり自己肯定感の低さ、幸せになれるはずがないという信念なんですよね。
ほんと揺るがないです、この信念。
いい方向に信念があれば無敵なんやなぁって思います。


結果的にあえて急に飲みに誘ったんです。
思考に負けたくないから。感情というか自分の気持ちを大事にしました。
だけど、押し付けるわけじゃないし。
「感情」と「行動」は切り離して。
エゴの押し付けにならないようにわきまえて。
答えがYESでもNOでもいいから。


それで結局は無理だったんですけど、相手が無理っていうのを受け入れるというか、そういう時もあるってとりあえず一回受け入れたんです。
思い通りになるわけじゃないって自分がわかるために。



それをしたことで、こうなりましたみたいな結果は別にないんですけど、大切なことに気づいたなぁって思いました。

大きな一歩だと思いました。たったそれだけのことで思考だらけになるから、ものすごく時間がかかったけど、とりあえずやって良かった。一つだけ強くなれたのかな。


せっかく気になって、不倫になるからやめとこうと思うところを、タロットがいいんじゃない?っていってくれて、誘った結果、熟すまで待ちなさいってところまで来てんのに、潰しちゃったらもったいないし。
できればうまくいきたいし。

その人と結ばれるかどうかは別として。




相手の気持ちが熟すまで待つことでもあるのかもしれないけど、僕が熟していくことでもあるんだと思ってます。


そのためには、僕はできる限り感情を出して、少しでも幼い自分を成長させる必要がある。
そして、向き合うべき課題から目をそらしたら、それだけ成長が遅れるって思う。

遅れるだけならまだマシ。また、成長をとめてしまうかもしれない。




断られるっていっても大小様々なのに、すべて否定というカテゴリーで受け取り、ちっちゃいことでも否定にはちがいないし、大きければそれだけ全否定されたと受け取ってしまう。


それが嫌だから、そうならない為に、経験も含めて、あらゆる情報を頼りに、自分なりに必死になって思考をフル回転にしてるんかなって思う。しかも自己肯定感が低いからマイナス思考を。


周りから見たら、憶測でものを考えてるようにおもうんだろうけど、本人は必死なんですけどね。

客観的にみたらアホにしか見えへんよなぁ。


肯定されたら「そんなわけないでしょ」って思うし、否定されたら「やっぱり…」って思う。


肯定された時にその人が真剣に言ってくれた言葉が嬉しくても、「前はそう言ってたけど、今日は思ってないだろう」とかね。
そしてまた、確認して「今日も肯定された」って嬉しくなって。
だけどまた、不安になって確認して。

一喜一憂して、浮き沈みが激しくて。良くて悪くて。生きたくて死にたくて。

ほんとに忙しい人。極端な人。




相手の気持ちや約束を確認したがる。
最悪の事態を想定して、起こったときのために予防線をはってるんかな。


こんな自分がいるんだなぁって改めて思いました。
幼い子供の僕が必死に生きてたんやなぁ。
そんな確認しなくても、不安にならなくても大丈夫やでって教えてあげないと☆







ちなみに、たぶん僕はこんな感じ。



自己肯定感が低い=幼少期の見捨てられる感覚(不安)、愛情不足
        ↓
幸せになるはずがない(見捨てられるはず、愛情が不足するはず)
        ↓
今の状況を疑う=確認(不安・不幸の確認)  ←【今回はここで「思考」より「感情」を優先】
        ↓
不安が当たり前(積み上げたものをつぶすことが気持ちいい=自己破壊衝動)
        ↓
不幸の実現(やっぱりダメなんだの確認)
        ↓
自己への否定(存在の否定)

※これを繰り返せば繰り返すほど癖になってやめられない。中毒状態。(信念の確立)

  何度も証明をすることで、間違いがないって思うようになったんだと思います。


これを死ぬまで無限に繰り返すんだと思います。
さらに強力な自己否定の出来上がり。

今回の行動(疑いの確認)が自己否定からくる「思考」よりも、本当の気持ちである「感情」に置き換えたことで、この循環がどう変わるのか?
僕が自己肯定感の上げる方法のひとつかもしれない。