ナスカからクスコへ
オートバイ二人乗りの旅 インカの都クスコへ 2005年7月22日記載
* 南米最大の帝国を築き、スペインに滅ぼされたとは言え、マチピチュに代表されるすばらしい文化を築いたインカの都クスコを見たくて、砂漠を走り、世界七不思議の一つ、広大な大平原(バンバ・インヘニオ)に描かれたナスカの地上絵をみて、ナスカからプキオ~チャルワンカ~アバンカイ経由、約800キロのアンデス越えでクスコへ。
* エンジンオイル・チェーン調整とオイル途布・ガソリンオクタン価90を満タン・予備タンク準備・など旅を支えてくれる友トランザルプの準備をして。そして首にはマフラ、合羽を着込み、寒さ対策を万全にして出発。
* この道はクスコへの主要道路の一つではあるが、6000メートルの山山が連なり、4500メートルの峠をいくつも越えなければならない。そして峠を越えて少し下がった所での川渡りもある。“二人乗りで荷物満載でのこの道を越えるのは無理ではないかとの現地の人の意見もあったが、トランザルプと自分の力を信じこの旅3度のアンデス越えに挑んだ。
* 峠では寒さで震え、川渡りでは、酸素の薄い高地でうなりをあげて支えてくれたトランザルプに報いるために、荷物を担いて渡ったりして苦戦はしたが、7月22日、1時45分、3400メートルにあるインカの都クスコに無事到着。
* カナダ・バンクーバーを出発して380日、メーターは52、666キロ。インディヘナの人達との出会い、雪に覆われ、白い雲がたなびいて、其の上は真っ青な空に映える山山、それはすばらしい景色をみての道のりであった。
* これからクスコ・マチピチュを歩くのが楽しみである。
大平原(バンバ・インヘニオ)に描かれた地上絵の一部
(地上絵のど真ん中をトランザルプで走る)
アンデスの山山と九十九折
川渡り
(酸素の薄いアンデス越えに耐えてくれたトランザルプに報いるために荷物を担いての川渡り)
クスコ到着のときの写真
*2005年7月22日
*カナダ・バンクーバーを出発
380日目、52、666キロ。
キトでの再会 2005年6月17日
* 旅の友“テラーブルー(我が愛車、青い大地:トランザルプ650cc)を受け取り、通関の手続きと書類完了(14日間かかる)、南米大陸縦走の計画を作り、子供ものころからの行ってみたいと思っていたガラパゴス行きを果たし、これからの大陸縦走に欠かせないテラーブルーの整備をしなければならないと、、、。
* しかし4000~5000メートルのアンデスの山脈をタンデムで越えるには、何をどうチェック、対処したらよいのか?
* しかしキリストは私達を見捨てていなかった。ガテマラ・アンテグアのペンション田代でお世話になった小林さんご夫妻がキトに来た。
* “アンデスをはしり、最南端のウシュアイアまでの長い旅をするには、今のタイヤ状態では無理である。
まずタイヤを替えること、そして今不安に思っているところをチェック、整備すること“とアドバイをもらい。早速教授をもらい対応。 デスクブレーキパットを換え、ケーブルにオイルを注入、そして待ちに待っていたタイヤが今日入荷、無事交換完了。さあーこれで南下も大丈夫。
* 21日に、チャリダーのアッキ(上田 章義さん)、25日には持木(持木真彦さん)さんがキトにつくという。二人もペンション田代で出会った人達。小林さんご夫妻と、二人を迎え、再会を果たし、南下を開始しようと、、、、
6月6日 ガラパゴスからキトに帰還一日目
6月6日 ガラパゴスからキトに帰還一日目。 月曜日
* 6時起床。窓のある部屋に入れてもらえたこともあって、朝日が差し込み、気分の良い朝を迎えた。
* 朝食、昼食を挟んで早速日記の整理。
■ガラパゴス行きを振り返って。
* “お前が大きくなったら船で世界一周をしてそしてガラバゴスにも行こう” といっていた親父もなくなって既に52年。
* 商船学校に入り、“船員になって世界の海を回り、そしてガラパゴスには必ず行こう” と思っていた。が、しかし受験で学科をパスしてもう大丈夫だと思い、薪を割っていて其の薪が目に刺さり、目を手術、そのため船員になることを諦めざるを得なかった。
* それ故、船での世界一周を諦め、またその後生活に追われたのと、決断がつかなかったことから、一時は行けないかな~と思ったこともあったが、やはり希望を捨てきれず、漸く勤めも終えたので、船をバイクに換えての世界一周。
* 安く上げようとおもって小さなボートに乗ったこともあり、1日目のバルトロメ島へのクルージングにおいて、ボートのアクシデントで太平洋に8時間も浮かぶという羽目にもあったが、“やっとガラパゴス、来たぜ、親父”。
* 本当に行ってよかった。 感動の連続であった。
ガラパゴスの動植物です
木になりかかったサボテン
大カツオドリの親子 人を全く恐れません
海イグアナです
陸イグアナ 絶滅寸前 貴重な写真です
3日間 海に潜りっぱなしでした
ガラパゴス行きにかかった費用(飛行機の手配以外はすべて自分で手配)
1日目の費用(一日目の総費用=318.7ドル+飛行機往復代670ドル=988.7ドル)
宿から空港までのタクシー代 ;;3ドル飛行機代(往復代) ;;670ドル (一人335ドル) TC
ガラパゴスの空港での入島税の支払い ;;200ドル(一人100ドル)
空港から港までのタクシー代(バントラック) ;;1ドル(2人分)
高速ボートまでのボート代 ;;1ドル(2人分)
サンクリストバルからサンタクルズまでのボート代 ;;60ドル(一人30ドル)
1日目の宿代 ;;45ドル
夕食とビール代とアイスと水 ;;8,7ドル
2日目の費用(181.5ドル)
クルーズ・スノーケル費用(Barto Lome島);;150ドル(一人75ドル)
スノーケルのレンタル費用 ;;7ドル(一人3.5ドル)
宿泊代 ;;20ドル
ボートでのコーラーとビール代と水 ;;4.5ドル
3日目(91.5ドル)
クルーズ・スノーケル費用(サンタクルズ島巡りとサンタフェ島);;50ドル(一人25ドル)
宿泊代 ;;20ドル
スノーケルのレンタル費用 ;;6ドル
夕食とビール等の食べ物 ;;15.5ドル
4日目(168ドル)
クルーズ・スノーケル費用(ノースセイモア島) ;;130ドル(一人65ドル)
宿泊代 ;;20ドル
ボートでの飲料水と夕食等 ;;18ドル
5日目(65ドル)
高速ボートまでのボート代 ;;1ドル(2人分)
サンタクルズ島からサンクリストバルまでのボート代 ;;60ドル(一人30ドル)
高速ボートから港までのボート代 ;;1ドル(2人分)
飲料代、 ;;2ドル
キトの宿までのトロリバスー費用 ;;1ドル(2人分)
総費用 824.7ドル+670ドル(飛行機代往復)=1494.7ドル
一人当たり747.35ドル
南米への第一歩、赤道の国エクアドル・キトにて
オートバイ二人の旅 南米への第一歩、赤道の国エクアドル・キトにて 2005年5月19日
南米大陸への第一歩として赤道の国エクアドル、その首都キトに入り、今は旅の友、トランザルプをまっている所です。
コロンビアに渡るか?それともエクアドルにするか? バイクを送る当日まで悩みました。そして熟慮、結果以下の大使館とパナマボイジャでの旅人の情報を重視してエクアドルキトにフライトすることを決定キトに入ったしだいです。
キトは、警察が随所に立っておりはするが、4月15日に、非常事態宣言が発せられたという雰囲気は感じません。 コロンビアに入っても同じように、危険はなかったのかもしれないとも思いましたが、“無謀な旅は、冒険の旅にあらず” 今はこれでよかったと思っています。
重視した情報;
4月から5月にかけて、
* ボゴタとカリ間で警察とゲリラの銃撃戦で警察の方が4人なくなった。
* カリからエクアドルの国境間で道路封鎖が頻繁になされた。
* また同じ区間で4人の外国人が誘拐された。
以上の情報を重視した結果、エクアドルにフライトしました。
写真は、
コロンビアに発ことを楽しみ、コロンビアで走るときの身につけるゼッケンナンバー(幻のゼッケンナンバーになりました) とキトのセントロに建つ、南米一古い歴史を持つサン・サンフランシスコ・修道院です。
幻のゼッケンになりました
南米で一番古い教会 サンフランシスコ修道院
パナマ運河にて
オートバイ二人乗りの旅
パナマ 運河・ミラフローレス水門にて 2005年5月8日
北米大陸最南端では“パナマ運河を観る”今日は其の日。
これが10年の歳月とアメリカがコロンビアからのパナマを独立させる介入をしてまで作った運河か、“すごい”
昨年の7月24日 日本を出発して、305日。私達を支えてくれている旅の友トランザルプのメータも48、801キロ。良くここまで来ることが出来たな~
雄大な自然を観て、体験して、心和みまたその過酷さも嫌と言うほど味わった。そして多くの素敵な人達との出会い。
感動を覚えたこと数しれず、厳しかったが面白い旅でもあった。
運河をみていて、こころは南米へと、飛んでいる自分を発見した。
プロローグ オートバイ二人乗りの旅
プロローグ
子供のころの夢を追って世界の子供に会いに
オートバイによる “チャレンジ” “発見” “感動” 冒険の旅。
子どものころに描いた夢であるが・・・勤めを終え、やっと実行の決心がついた。
もっと世界のことをしりたい、もっと子ども:若者のことを知りたい。これが私の<5大陸走破の旅>の動機であり、ロマンの心である。
水島 治 1942年1月27日生 (2005年7月31日現在63歳 妻安子63歳)
「冒険の旅」履歴
1999年12月25日、日本を出発。 26日間の「ニュージーランド一周」冒険の旅への挑戦。
オートバイによる初めての冒険の旅
2002年6月26日、日本を出発。 50日間の「ユーラシア大陸横断・トランスシベリア」の冒険の旅への挑戦。
埼玉県狭山市の自宅を出発、大陸のザルビノ:ウラジオストックに渡り、8月11日 ユーラシア最西端「地終わり、海始まる」のロカ岬に立って、スカンジナビア半島の中心に位置するマドリッドを後にした「ユーラシア大陸横断・トランスシベリア」の冒険の旅は、約16,500キロの足跡を大地に残して50日後に終結した。
雨:風:寒さ:灼熱:に身をさらして挑戦したからこそ、新しい発見、子供との出会い、異民族との触れ合い、が数多く得られた。また、旅の友としてのオートバイ「テール・ブルー号」に助けられ、いやというほどその存在価値を思い知らされた日々であった。
2003年5月8日、日本を出発。 91日間の「オーストラリア縦横断」の冒険の旅への挑戦。
西オーストラリアの州都パースを出発した大陸一周行の旅は、26,798キロの轍を太陽が紅い大地にじりじりと炙る原野に残して91日で終結した。
2004年7月24日、日本を出発 妻とのタンデムでの「北米・南米大陸縦走」の冒険の旅への挑戦、
現在にいたる。
カナダ、バンクーバーを出発、ユーコン川のドウソンシティに行き、そこを極北の出発点として
南下、2005年7月22日、380日目、52,666キロでインカの都だったクスコ到着。
これから南米最南端の街ウスアイアを目指し、2006年の初頭、南極行きを目指している。
語学力ゼロ、日本語のみ、でも旅には支障がなかった。そして、今までのたびを通じて、沢山の人との出会いがあり、感動数知れず。
書生くさいかもしれないが、体力の続く限り、好奇心がある限り旅を続けるつもりである。
水島 治
水島 安子