気安く、千玄室さんなどとお呼びするのは失礼だと思うが、千玄室さんは同志社で学ばれ、しかも馬術部のOBでいらっしゃるから、体育会の中では先輩後輩の仲ということになる。それだけでも誇らしい気分だが、今日はその千玄室さんのお話を伺う機会に恵まれた。

千玄室さん

運動部全体のOB組織である関東同志社スポーツユニオン総会のゲストスピーカーとしてお越し頂いたものだが、感心したのは、お約束の一時間を立ったまま、原稿も見ずに話されたことだ。93歳とのことだが、姿勢が良く、表情が豊かで声も良く通る。全員がお話に引き込まれていたように思う。

最初に話されたのは馬の買付けやお世話、輸送に関する苦労話で、会場からは「へぇー」という新鮮な驚きの声が聞こえてきたが、千玄室さんが1968年(?)のオリンピック代表選手選考会で無念の落馬をされ、「馬だけがオリンピックに行きました」とおっしゃったときには会場に笑いの渦が巻き起こった。又、13年前に亡くなられた奥様はウマ年だったそうだが、「さまざまな馬と出会ってきたが何とか乗りこなせた。しかし、妻だけは乗りこなせなかった」とおっしゃったときも大笑いとなった。千玄室さんにはユーモアのセンスがあり、その後も何度か笑わされた。

しかし、お話が太平洋戦争の時代に及び始めると、千玄室さんの口調が少し厳しくなった。同志社中学時代には柔道部に属されていたとのことだが、他の学校なら当り前の「神棚」がキリスト教精神を重んずる同志社の武道場にはなかったらしい。それを軍事教練担当の配属将校が問題視し、湯浅八郎学長が最終的には辞任せざるを得なくなったとか。又、同志社のカレッジソングは英語で歌う校歌だから、戦時中には歌うことが禁じられるなど、自由を標榜する同志社にも暗くて不自由な日々が訪れたようだ。

その後、同志社大学に進学された千玄室さんにも学徒出陣の命が下され、海軍航空隊で訓練を受けられる。そして、日本の敗戦が濃厚になってきたころ、千玄室さんは特攻隊に配属され、テレビの水戸黄門役で親しまれた俳優の西村晃さんと共に出撃の準備をされるが、その直前に敗戦となり復員されたとのこと。まさに九死に一生を得られた訳だ。同じ特攻隊にはさまざまな大学から学徒出陣してきた運動部の学生が何人もおられたとか。そういう仲間の出撃を見送ったときの光景が今も脳裏から離れないとおっしゃっていた。「平和が大事です。しかし、私たちの国は私たち自らが守るという気概が必要です」という千玄室さんの言葉は、若くして命を落とされた特攻隊の仲間に送られたものでもあったのだろう。