イタリア人の虚無性、もしくはその本質について白想すること | できれば本に埋もれて眠りたい

イタリア人の虚無性、もしくはその本質について白想すること

フェデリコ・カルパッチョの優雅な倦怠
訳と註 小暮修
フェデリコ カルパッチョ, Federico Carpaccio, 木暮 修
フェデリコ・カルパッチョの優雅な倦怠

もしスノッブなイタリア人を笑える余裕があるなら、もってこいの本です。
旅行エッセイですが、たとえばフランス旅行の際はこんな感じです。

「あの日は曇り空だったけれども晴れていなくて本当によかったと私は今でも思っているし、シトロエンZXアヴェタージュの助手席に座っていたフランソワーズだって同意見だと私は信じる。前を走る愚図で鈍くて下手糞でとろいルノー4(*5)を追い抜くことばかりに集中していたとき、フランソワーズがいった(お願いだからフランソワーズが誰で何歳で仕事は何をしていて髪の色はなんで顔だちがどんな感じなのか脚はどのぐらい長くて綺麗であるか私とはいかなる関係にある人物であるかなどと訊ねないでほしい。彼女は単に私の友人の一人なのだ(*6))。『あっ、見えた。』

*5 つい先日中止になった小型車の名作。
*6 フェデリコがサリンジャーの愛読者であるとは知らなかった。」

とまぁこんな感じで、注釈との絶妙なコンビネーションも楽しめます。

食べ物と女の子と買い物が好きなスノッブなイタリア人を笑えるところまで極めたところがこの作者と訳者のえらいところで、あぁ世の中にはこんなに意味のないディテールが存在するんだ、と実にリラックスできます。
じつは単なるエッセイである前作「極上の憂鬱」のほうがより、意味がない、という点で優れているので、できればそちらから読み始めた方がいいかもしれません。

ちなみに今回旅行したのは、西印度諸島のクルージング、スペイン・マヨルカ、タイ、南アフリカ、マレーシア、フランス・ブルターニュ、カルフォルニア、九州、です。どれも旅の参考になるような意図は全くなく、誰といって、何を食べて、何を買ったか、ということに終止しています(しかし旅とはそういうものかも。イタリア人はつねにみもふたもない人の本質(つまり、食欲や購買欲や性欲ですね)をつきつけているような気がします)。

忙しい時にはその無意味さにとても読む気にはなれませんが、ちょっと余裕があるときにその空虚さを笑う余裕があれば、是非。

読まれた方。
作者名、もしくは訳者との関係の問題については、どう思いますか。

フェデリコ カルパッチョ, Federico Carpaccio, 木暮 修
フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱