私は平成14年5月から職場でアレルギー外来の担当になっていました(厳密には火曜日のみ。月・木・金は精神神経科)。

せっかくアレルギー検査に看護師が関わり始めたので以前から同僚のTさんと院内の看護実践報告会にその内容を提出しようと言っていました。その期限が迫っていたため久しぶりに勤務病院に足を運びました。母のお昼ご飯を早めに作り調子が良い事を確認してから12時に出掛けました。姉が仕事から戻るのが13時30分なので約1時間30分母一人になります。心配でしたか、母も私が行けるように気を使っている様子が分かったので思いきって出掛けました

 

Tさんとは2ヶ月ぶりの再会でした。メールや電話ではお互い連絡を取っていたのですが直接会うことは久しぶりでした。久しぶりの再会に2人して泣いてしまい2ヶ月間の空白を埋めるように喋りました

。彼女とは歳が近く職場でもプライベートでも仲良くしていました。お互い会わなくなってから色々あり思わず感情的になったのです。暫くお喋りをしたあと本題の原稿に取り掛かりました。一日で出来るものではないので今度は私の自宅に来る約束をして別れました。

 

それ以外にも久しぶりに同僚に会えました。I看護長、A主任、O看護師、です。母の経過、日々の暮らし、色々な思いを話すうちに自然と涙が流れました。やはり同じ看護職なので状況も理解してくれます。特にA主任は私が介護休暇を取得する以前から励まし続けてくれていました。

「私はもし母が死んで職場に復帰したら、患者主体の看護師になれるか不安です。患者さんも無理難題を主張する時もあるから必ず百%要望にこたえなくていい場合もあると思います。でも患者さんの気持ちになって最後まで看護に責任をもってしっかりできるか。」

「今は良い経験だとおもうよ。復帰したら状況に応じて判断して患者さんに関わっていったら良いと思うよ。」

「仕事を休んでいるので社会に取り残されているようで。」

「何言ってるの。最先端をいってるのよ。」と、皆が異口同音で言ってくれました。

「私は今までも自分の周りの人に恵まれていると思っていたんです。母の命が限られてきて、今はでそれ以上に何をするにも感謝の気持ちを自然に持つようになったんです。心からです。自分達の周りの人がいてこそ私も頑張れているんです。仕事も休ませてもらって皆が働いてくれているから私が休めてるんです。だから今私がしていることをしっかり記録して残さないといけないと思います。」

 

看護長は私の気持ちを聞いて「強いね」と遠くを見ながら言いました。仕事の終わった静かな外来で皆で暖かい空気に囲まれているようでした。

介護休暇が終わった時、それは母との別れを意味します。でも私はまた看護師として復帰した時、こうやってはげましてくれる同僚のためにも“看護とは”を問いつづけ患者・家族に関わりたいと強く思いました。

 

自宅に帰ったのは夜の7時でした。なんと母は姉と息子と姪のFの4人で入浴していました。母が姉と入浴するのは、初めてだったので心配しました。母の衣服の着衣を手伝った後階段を這いながら上がる母が私に言います。

「もう入ろう入ろうってうるさくて!にぎやかだったわ。でももういいわ。もう入らない。○○待っとくわ。」

 

姉にしてみれば私が楽なように気をきかせてくれたのだとおもいました。でも段取りも説明せずに出掛けていたので母にとっては十分ではなかったようです。どちらにも悪かったなと思いつつ、それでも今日同僚にあえた事は私にとってまた明日から頑張ろうという気持ちにさせてくれました。しかし、母との1日の流れが変わる日は母にとっても私にとってもリズムが変わりストレスになるのは事実でした。母の用事で変わることはなんということではないのですが、それ以外だと修正に時間がかかります。暫くは母の意思のみの変更は控えようと思いました。





開けた様子。



遺骨の入った指輪の実際 遺骨用の私の指輪。エメラルドにダイヤ。