父が亡くなる4年前、平成7年1月17日阪神淡路大震災がありました。神戸市H区に住んでいた私の両親・祖母の自宅は全壊し、自宅再建までの1年以上を当時私達夫婦と子どもが住んでいた神戸市灘区で暮らしました

自宅再建までは近隣の問題やあまりに多い住宅再建のため思うように進みませんでした。近隣との問題で母と息子を連れて弁護士会館まで足を運ぶこともありました。私の住んでいた灘区の公団住宅は幸い大きな損傷はありませんでしたが 、水道・ガスが止まりました。主人は復興事業の仕事に従事していたので毎日朝早く出勤、両親は暫く自宅から荷物を出すために出かけていたので、私が子どもをおんぶして4階までの水の運搬・家事全般を担っていました。息子は川の水をガスコンロで沸かして衣装ボックスで入浴させていました。父の勤めていた会社は関西でも大手の鉄鋼会社だったため職を失うことはありませんでしたが、激務を強いられました。仕事や自宅再建の問題、慣れない場所での生活が重なり平成8年3月に脳梗塞を煩いました。幸い大事には至らずすぐに退院の運びになりました。この地震が数年先の父の死に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。全てがあまりに衝撃的な事だったので当時の細かいことは記憶が飛んでいるのですが、小さな息子の笑顔やしぐさに家族の皆が救われたものでした。平成八年四月に自宅が再建されました。家具をわざわざ自宅の庭にプレハブを建てて保管してくれた伯父や岡山に住んでいた姉には色々と力になってもらいました。

暫くは母との旅行を重ね、孫とも暮らしていたため父にとっては幸せな日々でした。平成11年の7月には日本を船でクルージングする旅行に出掛けました。その時、私と息子が港まで送って行きました。船が小さくなるまで息子と2人で手を振り続けました。これが2ヶ月後に本当に父との最期の別れになる予感にようにずっと手を振り続けました。そしてその年の9月、最愛の父を白血病で亡くしました。59歳の誕生日を迎えたばかり、発病から2ヶ月余りでの死でした。阪神・淡路大震災からわずか四年でした。掛かりつけの医院から紹介された病院では治療が出来ないということである病院を紹介されました。その時は一刻も早く治療を開始しないといけない状態でした。私としてはこの近辺にある病院を紹介してくれると思っていたのですが、紹介された病院はN市の私立大学病院でした。そして次の日には一転私達の住んでいるH区の隣、N 区の病院に紹介すると言われました。私としてはC区にある公立の病院なら免血病棟があるので出来ればそのほうが治療に適していると考えましたが無理と言われました。その時は自分が看護師でありながら父の白血病という病気にショックな事と早期の治療を開始しなければならない事、付き添う母を考えれば結局は近くの病院に決めました。しかし、後になって後悔し続けたことはそういう選択で病院を選んだことでした。もう少し最初に入院した主治医に転院先を強く希望してC区の公立病院に転院できなかったんだろうか。そして私の勤務している公立病院系のA市の病院に転院したほうがよかったんじゃないだろうか。それは父が亡くなって何年経っても思うことでした。

結局父は、初回の抗がん剤治療後、副作用や肺炎に苦しみながら最終的には多臓器不全で亡くなりました。お世辞にも私達と入院先の医師・看護師達との関係は良いとは言えませんでした。白血病のことを「厄介な病気になりましたね。」と転院初日に言った主治医、父の体を拭いてくれている看護師二人に向かって「どっちが先にお昼に行くのか決めてくれないとこっちが困るんだけど。」と言いに来た年配の看護師、「ねえねえ、○○さんってターミナルだよね。」とオープンフロアのナースステーションで事も無げに父の事を話す看護師・・・医師と看護師との指示請けミス。精神的な面を全く無視し、人間を患者という物でしか見なかった主治医と一部の看護師達・・・・なんで、こんな医師と看護師がいるんだろうと、憎しみもを持つ感情抱く日々でした。穏やかだった父の性格はどんどん変わり、娘の私を病室に入ってきた泥棒と間違えて打ったり、自宅に帰りたいとポケットのないパジャマの胸からお札を出そうとしてタクシーを呼んでくれと懇願していました。どうしても、入院先の病院で父の最期を迎える気になれずK区の緩和ケア病棟〔人生の最期を痛みを出来るだけ除去しその人らしく過ごすというスタンスの基に作られた病棟〕がある病院に主人と相談に行きました。数少ない緩和ケアの病棟でありもちろん入院待ちの患者さんもいました。突然予約もなく訪れた私達をその病棟医と看護長は静かに諭されました。しかし、私が大泣きをして今までの思いを話す姿を見て先生は、

「転院するまでの救急車の中で死を迎えてもいいなら明日の入院をうけましょう。」

と、言ってくれました。元の病院に戻ったとき、日頃からどうしても受け入れることの出来なかった看護師が、

「入院は受けてくれなかったでしょ?」

と、意地悪く言ってきたことが今も忘れられません。結局、父は転院する日になった0時を暫くまわってから亡くなりました。転院は出来ませんでした。

その日は母と姉と伯父が病院に泊まっていましたが、私が姉から電話を受けて病院に駆けつけた時は、母も姉も伯父も廊下に出され沢山の医師と看護師が父を囲んでいました。父はもう動く力もなく、頭を下げられ挿管チューブをまさに挿入されるところでした。

「もう、いいです。」

と、私が言い家族を病室に呼びました。

「お父さん、好きだったよ。有難う。」

と、言う私の横で、若い医師が父の胸を叩いて心臓を動かそうとするので

「もう辞めて下さい。」

と、私は力なく言いました。結局、転院は出来ませんでした。こんな2ヶ月の入院生活で私、母、姉は父の死がなかなか受容できませんでした。あんなに大好きな父がなぜ苦しんで死ななければならなかったのか?人は生きてきたように死ぬというが、なぜ善良な父が生きてきたように穏やかに死ねなかったのか?晴れた空を見上げると、父が死んだのになぜ空は晴れているの?と、自問自答を繰り返していました。医療者との関係も同じ医療者としてショックで、自分は患者さんの気持ちを考える看護師であらねばと強く感じました。状態は決して良くなかったので他の病院に入院しても同じような経過をたどったかもしれません。でも対応の違いがあればもしかしたら、入院生活をこんなに辛く送らなかったかもしれません。その後、知り合いの医師に父の主治医〔実際は主治医の上の医師のこと。主治医は研修医だったため上に医師がいた。〕の事を話すと、評判の良くない医師だったのになぜ掛かったのか、と言われ余計悔やみました。父の死は何年たっても受け入れることは出来ませんでした。年月は父の死を少しは忘れさせてくれますが、あの病院の医師・看護師は今でも憎んでいることに関しては否定できません。

 入院中の2ヶ月余り仕事を休んでいた私は、忌引きが終わった10日後より職場復帰し、また以前の看護師、主婦、母親の忙しい日々に戻りました。しかし『人の死』について、特に病院で人が死ぬことの意味について考えるようになったのです。人によったら自宅で死ぬこともひとつの選択ではないかと考えるようになりました。本屋で死についての本を探す日が続きました。その時、出会った本が末期医療、死の科学の第一人者であるエリザベス・キューブラ・ロスの『人生は廻る輪のように』の訳書(角川書店)と、当時聖ヨハネ会総合病院桜町病院ホスピス科部長、山崎章郎先生の多くの著書でした。看護師でありながら、ホスピスついて無知だった私に衝撃を与えました。患者が主役であること、癌患者の疼痛コントロールを含む症状コントロールはできる、痛みは死の恐怖からでも感じるときがあるなどを読み、そのような医療が受けられていたら父も穏やかに死を迎え、私達家族もいつまでも悲しみに更けることはなかったかもしれないと思ったのです。また、私が感銘を受けたエリザベス・キューブラ・ロス先生の本を読み他科からホスピスを目指したと、山崎医師が書いていたことに共感しました。自分が共感した医師の本を読んで本当にホスピス医になった医師がいたんだとびっくりしました。自分がロス医師の実践してきた医療に感銘を受けたと同じように山崎医師がそれで自分の担当科を変えてホスピス医師になったことに、自己解釈すぎますがある点共通点を感じたのです。

 母は読書が趣味だったため父の死後、死に関する本を読んでいたようです。ある日私に「私が死ぬ時は、痛いのは嫌だからね。だから、最期は痛みが取れる病院に入れてね。」と、いいました。幸いなことに近隣に緩和ケア病棟を有する病院があり、近い将来母が病に倒れるとは考えもしていなかった私は「もちろん」と、軽く答えました。しかしその時に私は父の事もあり、もし本当にそういう時が来たら最期は自宅で看取ると心には決めていました。

エリザベス キューブラー・ロス, Elisabeth K¨ubler Ross, 鈴木 晶
死ぬ瞬間―死とその過程について


山崎 章郎
病院で死ぬということ

山崎 章郎
僕が医者として出来ること―ホスピスの歩み、これからの夢
山崎 章郎
僕のホスピス1200日―自分らしく生きるということ