本家武田家 元祖武田家 | 八納洞の木鹿大王

八納洞の木鹿大王

史跡を中心に徒然なるままに、、、
ただし真面目に読むと激しく後悔する内容となっております。。。。

若狭の国に赴いた。

こんなものを配っているものがあっての。

若狭の武田氏。。。。。甲斐武田氏の分家のようなもんじゃろうと思ったのだが、何かの縁、挨拶に行ってやることにした。


木鹿大王:若狭の武田氏の誇りとは何ぞやぁ。朝倉と一色に挟まれ、国内もまとまっとらんかったのではないのか???武田信義公、信光公以来、甲斐が本家であろうがぁ!!!!

????:ぬぅぅぅぅぅぅぅぅんんんんん。

木鹿大王:なにやつ????






????:ぴりょりょりょりょ~~~~ん♪




木鹿大王:むっ???動けん?
そして意識が遠のいた。。。。。っく!?


後書き:
???? は武田元光公です。
木像が展示してありますが、なんか怖いです。。。。。武田信玄より怖そうです。。。。
ぜったい魔法使えたはずです。それなのに朝倉家に圧倒されたということは、相当な多勢に無勢だったのでしょう。さらに遅効性の黒魔術で、直面する危機に効果を発揮しなかったのかもしれません。。。そして姉川の戦いのころに効果を発揮したに違いありません。。。
そうでなければ、2m超えの太刀を振り回す真柄兄弟に徳川軍が勝てるはずがありません。
(木像の写真は、写真をデジカメで撮影、館内は撮影禁止)

。。。。。ふざけすぎましたか。。。。(妄想ブログにカテゴリしてあるので問題ないかと。。。)

この展示では、若狭武田氏こそが武田本家と主張しておられます。

 富士川の戦いで活躍した、武田信義公、信光公は祖先であるのは同じ、その後、信光公は甲斐のみではなく、安芸守護も任じられ兼任していたそうです(ただし当主は甲斐に居住)。

 その後、代を重ね信時公のとき、元寇があり、鎌倉幕府より九州に近い安芸に赴くよう命じられたそうです。

 しかし信時公、霜月騒動(安達泰盛が討たれた)が起こり、守護職両方とも没収。。。。;;
甲斐、安芸それぞれで武田家の末裔は頑張って、信時公から孫の代に、甲斐守護と安芸守護それぞれ復活^^/

その後、代を重ね南北朝時代、安芸が北朝、甲斐が南朝に。
甲斐武田家が討たれてしまい、安芸武田家の信武公が甲斐守護も兼任。

そして信武公は、長男氏信公に安芸を、次男信成公に甲斐を任せました。
ここで、安芸が本家となります。

その後、安芸武田家の信栄公が足利義教公より若狭守護に任じられ若狭へ移住。
よって、若狭武田家こそ本家、ということだそうです。

ちなみに、戦国時代は、朝倉家の家臣でもなかったと主張しておられます。
でも、当主の元明公は朝倉軍に一乗谷に拉致されてしまったそうで、、、、(家臣以下じゃん)

さらに、形はどうであれ、朝倉に与したということで、朝倉を討伐した織田信長公に領地没収。。。

復活を夢見て、明智光秀と手を取り、、、、THE END。。。。。。;;

うーん。。。。。なにか華々しさの見られない若狭武田氏の企画を立ち上げた福井県立若狭歴史館の勇気というか、、、、
こういうのを見に行くと、なんというか、再評価というか、、、ホントはすごかったんだ!!って感動とともに帰宅の途に就くんでしょうけど。。。。。某ゲームの能力そのままかなって。。。。
地元の戦国武将を応援したいけど、誇張や嘘をつくわけにもいかかず、、、ってとこだったのでしょうか。。。

某戦国時代ゲームをやってないと、なかなか若狭の武田でピンと来ないですよね。
司馬遼太郎の小説でも出てきましたっけ?
尻くらえ孫市 の金ヶ崎の撤退戦で領地とおりますが、出てきたの粟屋氏だった覚えが、、、

そういえば、、、武田家といえば、楯無鎧、、、あったの甲斐ですよね。。。(今もあるようですねぇ。。。)

本家と元祖、、、みたいな。。。
本家武田家、元祖武田家。。。。。(横浜にありそうなラーメン屋みたいになっちまった><)

ちなみに、左は入館するともらえる歴史館のパンフ、右は、今回の企画展のパンフ(¥1500)
アンケートに答えると、右パンフ上に乗っけてる木簡がもらえます。

木簡には、
若狭国遠敷郡 遠敷郷小舟里 秦人 庸 米 六斗  
税金の札ですな。。。秦人って中国からの渡来人?違う意味があるのかな???

あ、ちなみに、福井県小浜市です。Yes We Can!! (再選後は言わなくなったねぇ、、、)

あぁ、、、へしこ、買うの忘れた。。。。


以上