思い込み
これまで、何人もの方に姿勢、動作指導をしてきましたが、正直、上手くできた例は少ないでしょう。
このようにブログでも書いてきましたが、限界を感じています。
武術研究家・甲野氏と脳科学研究家・茂木氏の対談の中でも、身体操作を言語化するのは無理だと出てきます。
私が陥る状態として
一つの事を説明すると、補足のために他の分野、箇所の説明も必要となってきて、結果ぐだぐたと永遠と話す事となり、話し手聞き手双方が嫌気を刺してしまうわけです。
そこで今までのような説明をやめ、方針を変えようと思います。
説明をしたら仕切れないし、された所だけをクローズアップして物事を動かし始めるからです。
何人かの個人的な長期指導をしていて解った事は、
① 必要で重要なのは、教わる事ではなく、気がつく事。
② ①の為に、自分の発言が禅問答みたいになっている。
禅僧の言葉によって導かれた武芸者は多くいます。
洗練された禅問答なのどとは遠く及ばないでしょうが、視点、発想を変える手助けになるような例を記載していけたらと思います。
では、初の例文です。
10時の待ち合わせに、丁度の時間で目的地に着いたのに遅刻してしまった。
調べると腕時計が5分遅れていた。
普通は時計が狂ってるとは思わない、そして行動自体に問題があったわけではない。
遅れている事に気がつけば、5分早く行動を起こしていただろう。
今回の話は、重心位置の重要性を考えていたら思いつきました。
当たり前だと思っているところに、盲点がある。
私が整体業をするうちに思いついた、自己啓発です。
針がいつも正確だと思い込んでしまった事に原因があるわけです。
では、この例を身体として、「時計の針の位置」を「重心の位置」に置き換えてみましょう。
このお話では、時計を直せば一回の遅刻でおしまいですが、重心位置のズレは身体に負担を掛け続けます。
時計のように、はっきりと針の位置が見えるものでもない重心、気にしたことありますか?
気にしてなくても重心はあるわけで、今の位置は、どうやって決まったのでしょうか?
遅刻のような不具合は起きてませんか?
足音で分かる身体操作の優劣
今回は、偏見度の高いお話です。
今から記載することは下手に意識すると、反って疲れる動作になると断っておきます。
人が移動すると、足音が鳴ります。
慣れてくると、この音でどう歩いてるか想像がつきます。
種類は二つ、摩擦音と衝突音です。
摩擦音は、物と物が擦れて起こる音です。
スリッパで歩く時と、バスケットのようなストップ&ゴーの動作に起こり易いでしょう。
前者は、擦れてるという時点で、余計な力を必要としています。
後者は、止まりたい地点、力を発揮したい地点から、摩擦係数を超え横にずれた時に起こります。
擦れる音が出るということは、そこに必要でない力、もしくは空回りしている力が発生しているということです。
塵も積もれば、結構な力となります。
衝突音は、物と物がぶつかって起こる音です。
運動エネルギーが大きいほど音は大きくなります。
今回の場合は地面と足の裏ですが、足の裏を高く上げて落とせば大きい音、低ければ小さい音です。
高く上げるとは、階段でも登らなければ、本来無駄なことです。
ですが、低すぎれば、少々の凸凹に躓くことになります。
高い所から着地しても、音がならない事もあります。
それは、ショックを吸収できる脚と感度が有ればのことです。
サスペンションの硬い車は、振動が搭乗者を疲弊させます。
これを身体に置き換えれば、踵から伝わる振動が必要以上に疲れさせる原因となります。
脚が疲れる、上手く扱えない理由に、二つの事を脚にさせているからだ、と私は説明しています。
昨今の多くの歩行指導では、脚の裏(指)で地面を蹴れ、押し出せが主流です。
この時点で、身体を支える、推進力として使う、の二つが発生しています。
二つの事を同時にこなせと言われたら、混乱しませんか?
私が脚足に期待する能力は、支える力、というより高級なサスペンション能力です。
では、どうやって動くという事になりますが、そこは体幹の力、体捌きで歩きます。
動力とサスペンションを分けてしまうのです。
この話は、また別の機会にでも。
動くことによって、音が鳴る、必要以上に気流を乱す。
足音をたてないようにして、質量を制御しきる。
自分が起こす気流を、水中を泳ぐ魚のように無駄を無くす。
これが、上手い身体の使い方に繋がっていくと思います。
撓れる身体
良くない姿勢は、矢状面(身体を横から診る)と、大きく二極でしょう。
一つは、猫背で、私は「腰が抜けている」と表現することがあります。
もう一つは、良い姿勢と勘違いしてる人がいますが、鳩胸出尻です。
こちらは、「腰が頑張りすぎてる」と表現してます。
猫背なら腹側、鳩胸出尻なら腰側の筋肉を短縮させ塊を作り、そこに胸郭を乗せている状態です。
姿勢を正すのにやっかいなのは、上記のように乗せるのがあたり前になっていることです。
竹は撓ります。
ですが、最初から曲がってる竹は、撓るでしょうか?
綺麗な撓りとは、外側の伸張、内側の圧縮の作用が、全体に万遍なく働くことです。
一箇所でも、強く働けば、「折れた」、「曲がった」と表現します。
最初から曲がってる竹は、撓ることは許されません。
極論を言えば、撓り易い身体とは、猫背と鳩胸出尻の中間と言えます。
反りも、曲がってもいないから、撓れるのです。
これは、捻じれにも関係します。
曲がった棒は、捻じり難いですから。
必要なのは、重心線の確立です。
まずは、曖昧なものでも意識してみることです。
重心線を上から見れば点になり、そこを中心にいかに前後、左右のバランスを整えるかです。
もう一度いいますが、竹は、凸凹せずに、真っ直ぐ伸びているから撓れるのです。
下手な筋トレは、一部の圧縮を強めるようなもので、そこが曲がる要素となります。
一部で曲がると、全体の重量バランスが崩れます。
曲がった方向に重くなり、反対には、それに対抗する術が必要になります。
重量バランスの崩れからの対抗措置、これが、各部の痛み、肥満に繋がっていくと思っています。
筋肉つけて燃焼あげて痩せる、痛い所をカバーする、一見理に適ってるように思えます。
私には、この考えが、すごい落とし穴に感じてなりません。
痩せる、不具合改善に必要なのは、動&力でなく、知&制御です。
くれぐれも、撓りを阻害するようなトレーニングをしないよう、祈ります。
つづく