ハリネズミたいむ~IDDMとかなんとか~

ハリネズミたいむ~IDDMとかなんとか~

25歳で1型糖尿病を発症。
1日4回、体に針を刺してインスリンを打っています。
そんなハリネズミ的な僕が、1型糖尿病患者の本音や日々の出来事をちょっと尖った視点で時に真面目に、時に不真面目に書いていきます。

 
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一休さん。
大変破天荒で、ドクロを杖に刺しながら街をねあるいた、正しくパンクで歌舞伎者のお坊さん。
ですが、今わの際に何を弟子たちに言ったかというと、、、





「死にたくない、、、」


宗教者にじぶも色々な方々がいます。
死を穏やかに受け入れ、安らかに旅立つ人もいますが、
いくら生前に立派な説法をしても、
最後の最後で、人間の枠を超えられない宗教者もいます。

瀬戸内寂聴さんも、最近、癌との闘病の中で、
「こんなに苦しいことはない」といったニュアンスの発言をしていますよね。
あの世で、お釈迦様だか阿弥陀如来だとかが迎え入れて下さるので、皆さんご安心を!と言っている方でも、いざ自分が生きるか死ぬかの段階に入ると、弱音が出るものです。
あーあ、とがっかりする一方、人間なんだから、、、とあいだみつをのようなことも感じざるを得ません。

そんな、宗教者や世の中で立派だと思われている人に対して斜めな姿勢の僕ですが、ちょっと、気持ちが整理できてきましたので、久しぶりに書いてみます。

先日、7歳の1型の男の子が、祈祷師から「インスリンを打つな」と言われ、ご両親もその祈祷師の言葉を猛進して、お子さんは亡くなりましたよ。

僕と同じ1型患者の中でも、様々な意見が飛び交いました。
「親も同罪だ!」
「またこういうことが起きたか!だれか止める人はいなかったのか!」
「インチキ療法に頼る気持ちが分からない」
などなど。

でもですね、先の宗教者のように、人は普段どれだけ理知的で理論派で、冷静に見える人間であっても、いざとなると分からないもんです。

かくいう自分もそうです。
僕は1型糖尿病を発症して、2年ぐらいは食事制限もし、運動もし、それなりにコントロールをしてきました。
出も3年目ぐらいから、限界を感じました。
自己管理能力、という言葉一括りでいうと、自己管理が好きで得意な人もいれば、そうでない人もいるわけで、僕は2年が自己管理の限界だったわけです。

2年をすぐれば自暴自棄になり、過食が始まり、1型であることで社会、人に怯えていました。
一言で言えば、
「僕を攻撃しないでください。僕は病人です」モードに入ってしまいました・
だからこそ反面、病気を理解してくれない方に攻撃的になり、一方で、理解してくれそうな方には甘えるという意識が働いていました。

今になって思うのですが、病気であろうとなかろうと、完璧に自分の状況を理解し、気を遣う人間などほぼ皆無です。
「ほぼ」と言ったのは、「ゼロではない」ということです。
理解者はゼロではありません。
ただ、理解者に見える人が危険なのです。

「あなたの病気は悪霊がとりついているから」
「あなたが病気になったのは前世が関係している」

という言葉です。
これは理解があるようなふりをして、病人を利用する言葉。
でも、渦中にある病人にとっては、
「ああ、この人は分かってくれている」
と勘違いをしてしまうものです。

勘違い、、、
それは恋愛に似ています。
狂気です。

信じるということは狂気と裏腹です。
だから、何も信じないことは勇気入りますが、実は楽だったりします。
何も信じない。キリストもブッダも信じない。
ジョンレノンではないですが、何も信じないということは、全てを信じること。

いやはや、酔っぱらっているので支離滅裂ですね。

次回は、僕が見てきた「盲信」という世界の中で、命を失った方々のことを書きたいと思います。
いつ書けるかは自分自身も疑問ですけどね。

ずーっと、書いていない。
ブログ、ずーっと、書いていない。

新しい職場で世を忍ぶ姿を演じていることに疲れ、帰宅するとエネルギーがない。
ま、仕事終わったら立飲み屋に寄ったりするから余計疲れるのかもしれないけど。

アルコールとの付き合い方は、40代になってから変わってきた。
沢山飲んでもいいけれど、上品に沢山飲む。
上品にバランスよく、自分を元気にするために飲む。
そういうふうでありたい。

食事もそうだ。
ここ1年以上、食欲が減退していて「食えれば何でもいい」という意識ばかりで、
ランチはコンビニのパスタか、さっと注文してさっと食べて、何の後腐れもなく出られるそんなお店でうどんばかり。

それでも実は結構無理やり食べている。
義務感から食べていたりする。
職に対するどん欲さとか悦楽みたいなものはなくて、ただ腹を満たしているだけ。
今は、食べ物に対して失礼だなぁ、と感じるけれども、
人は余裕がないと「美味しいものを食べたいな」なんて思わないらしい。

文章を書きたい飢えが最近少し頭をもたげてきた。
職場から真っ直ぐ帰ったら、また少し書こうかな。
御無沙汰です。

最近、色々ありまして、パニック症状や鬱症状がちょっと出ていますが、基本的には自覚していますので全然問題なしだと思っています。

何が怖いかって、自分が「あれ?何か自分おかしくない?」と第三者的に見られない視点がないのが怖いです。

躁状態の方にありがちなことですが、中島らもさんいわく、躁状態になると「わしが地球を守る!」ぐらいの状態になるみたいです。
まぁ、「俺は神だ!」みたいな感覚ですね。

僕は特に特技もなく、これといったスキルもないことを痛いほどわかってますので、「俺は何でもできる!」という精神状態になることもなく、それなりに安穏と大きなトラブルなく日々を過ごしています。

とはいえ、毎日仕事をしていると、理不尽な(主観ですが)ことで叱られることもあります。
大体おじさんに叱られます。

おじさんというのは、ホルモンバランスの関係もあるのか、結構怒りっぽかったりします。
少し時間をおけば冷静になる傾向はあるものの、瞬間湯沸かし器のように、自分の思い通りにならないことが1個でもあると、急激にフッテンに達します。

これはこれで「まぁ、歳も歳だし、まぁ、一時的なもんだから、まぁ、ええか」と思って、「はいはい、仰る通りで、、、」とまず言いつつ、「いつもありがとうございます。で、ご相談なんですが、、、」と言うのが一番無難です。

かくいう自分も40代になり、知らず周りに負のエネルギー、老いのエネルギーを振りまいているかもしれないので、結局お互い様、という意識で仕事してます。

正直、僕の今の職場では、僕の給与はまさしく「薄給」です。
夜はホストでもやろうかという勢いですが、とりあえず、こうやってネットも出来て、たまに(いや、頻繁に)立飲み屋でお酒が飲めるだけまだまだマシかなと自分に言い聞かせながら、誤魔化し誤魔化し、口に糊しております。

1型糖尿病やパニック障害という負い目がある以上、我がままというか、上に「給料上げて下さい」と言えないのも事実です。
これは完全な自己卑下であって、今年の僕の目標の一つは「それなりに成果を上げたなら、それなりの見返りがあってもよくない?」です。

でも、なかなか言えないもんです。
だって、評価というものは自己評価と他者評価に分かれていて、いかに給与が少なくても、自己評価が高ければ「これでいいか」と足るを知るわけです。
でも、自己評価が低いと「これだけやってるのに、何でこんな給与なんだ!」と不満が出ます。

ビルゲイツが今の資産や収入に本当に、心から満足しているか。
これは彼にしか分からないことかもしれませんが、結局は「今が楽しいかどうか」と彼が感じているかどうかですね。

お金は沢山あっても別に困らない。でも沢山あっても悩みを自分が作り続ける限り、悩みは消えない。
だって悩みというのは幻想だし、自分しか想像できないですからね。
嫁さんから「もっと稼いで来い!」と言われたとしても、「まぁ、今はこの収入で何とか頑張ってくれよ」と愛情をこめて言えれば、嫁さんも頑張ると思うんですよね。

でも現実はそうそう甘くない。
パニック障害で半年ぐらい働けなくなっただけで出て行った嫁さんもいます。
こういうのは「縁」だと思います。
「縁」というのは、まさしく「そうなるべくしてそうなった」ということ。

あるがまま、Let It Beなわけで、今さら後悔しても意味はない。

そういえば、最近アドラー心理学の本を読んでいるんですが、この学説の一番特筆すべきは「トラウマなどない」という説ですね。
心療内科や精神科に行くと必ずと言っていいほど「親子関係」のことを聞かれます。
「毒親」とかちょっと話題になってますが、アドラー心理学は「幼少期のトラウマなど、大したことない。それよりも前に進む勇気があるかないか」というところに軸があります。
僕としては、トラウマもある程度その後の成長過程において影響はゼロとは思いませんが、アドラーの「そんなの関係ねぇ!」的な、小島よしおか、パンク精神に基盤がある教えは、なかなか痛快で、いかに辛い時でも「これでいいのだ!」という森田療法の流れも感じ得ないのです。

というわけで、生きていれば皆それなりに色々ありますが、過去は過去。
とりあえず、明日人に会ったら「おはよう!」を金地良く言えるか否か、で一日一瞬が変わってくるんだろうなぁ、という予感に満ちた夜です。

さいなら。
「綺麗は汚い。汚いは綺麗」という言葉があります。
これは、人間の判断というものは、常に相矛盾しているということです。

例えば、「世界人類に平和を!」と主張する方々にとっては「兵士は敵だ!」という意識があるのと同じです。
本当に世界人類等しく平和を!と思うならば、戦闘に参加する兵士さえも許し、受け入れるのが本筋です。
でも、そうはいかない。
戦争に加担する人=悪、という思い込みがあるからです。

一つの意見を言う、それを信じ、加担するというのは、常に矛盾を抱えているということなんですが、これに無自覚な人はある意味幸せだと僕は思います。

病気=悪いこと。

これも思い込みでしょうね。でも、本音で言えば、病気でなかったら、、、という思いもあります。
でも、人間は平等に「二つの人生は経験できない」わけです。
だったら「まぁ、自分でできることなんてほぼゼロだから、往生せいや!(自然に任せろ)」ということになりますよね。

でも人間には感情があるわけで、そうそう簡単に割り切ることはできません。
余りや端数が気になる。

で、僕が気になるというか、嫌いなのは「クリエイター」という言葉や身分です。
これは近親憎悪に近いもので、「私は〇○クリエイターです」という自己紹介や身分を聞くと、ぞぞ気が立ちます。
なぜかというと、本当のクリエイターというのは、自分の立ち位置とか立場とか資格とかを決めたくない人達だと思うからです。
常に「自分は誰だ?」と思うのがクリエイターだと僕は考えます。

自分は誰?と思うのは、神目線です。
真の自分を見つめる人こそ、クリエイターだと思うのです。
常に、世界を、自分を疑ってかかり、再構築する人とでも言いますか。

そんなわけで、僕は、「クリエイター」と名乗る人がいたら、まず疑ってかかります。
事務職でも、営業でもクリエイティブな人はいます。
制作やクリエイティブ職でなくても、クリエイティブな人は絶対にいます。
大体そんな人は、どこかに「狂気」じみたものを垣間見せます。
「怖さ」を持っています。
「寂しさ」を漂わせています。
「笑顔」を隠しています。

結局のところ、何が言いたいかって、僕は何者かな?と。

一生問い続けると思います。
でも、答えは分かっています。
御無沙汰です。

さて、本当に御無沙汰でした。

職場も変わり、精神的にも色々ありつつ、ようやく1年ちょっとすぎました。
今の職場はバッグやランドセルの卸売の会社でして、そこでECサイトのお手伝いをしております。
まぁ、なかなか本革バッグなんていうのは、結構お高くて手が出にくいものですが、
とりあえずうちの会社の本革バッグは、「本革バッグを使ってみたいけど、高いしなぁ、、、」と躊躇している方には、割と手が出やすい価格帯だと思いますんで、一応紹介しておきます。




あ、あと、ランドセルも型落ちとか、アウトレット安いです。
年々ランドセルは高くなっている気がしますが、結局、好みの問題が大きくて、
素材はよほど悪いものでなければ、ちゃんと6年持ちます。
でも、本来金具を使っていた部分にプラスティックを使っているようなランドセルは、
価格が安くても壊れやすいです。
ですから、多少価格が高くても、金属をちゃんと使ったランドセルの方が長持ちすると思います。

そんなわけで、これからはたま~に、更新したいと思っていますので、よろしくお願いします。