【手帳術・タスク管理】「手帳が活用できてる」とはどういうこと? | 思考も部屋も行動も! スッキリ楽に暮らしたい♪

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片づけが苦手なADHD傾向がある主婦の、部屋も思考も時間も行動もスッキリ楽に快適生活を目指す、記録ブログです。
思ったことを徒然に書きつつ、大切なものを大事にして、楽に自由に生きたいなあと思ってます。


 手帳の活用、とだけ言うなら、「手帳術をやってます」で、
 十分「活用」だと思うんですよね~。
 今後は考えが変わるかもしれないけど、少なくとも今の時点では。

 「うまく活用」とか「ストレスない生活のための活用」というのなら、
 「うまく」とか「ストレスない生活」って何? ってことかなと。

 私にとっての「うまく活用している」と「ストレスフリーのご機嫌生活」については、
 この後別記事にします。

 私が思うに、「手帳がうまく活用できてないできてない」と言い続けるのは、
 結局単に理想が高いだけ、かな。

 手帳を使っていなければ、うっかり忘れていたことを、
 手帳を使っていることで一つくらいは忘れずにやれているかもしれない。
 なのに、そこを見ないで「たくさんできている人」を見ているだけ。

 充実した生活を送っている人を見て、
 自分と違うということを「手帳のせい」にしているだけ。

 あなたとあの人は、違う。

 それを「手帳がうまく使えていないから」と思っているだけ。

 どんなに同じ使い方をしたって、
 同じようにはならない。
 同じように感じることはできない。

 その場合、あなたの変えるべき部分は、
 「手帳を使えるようになる」ことではなくて
 「手帳でもなんでも使えるものを使って、使えないものは使わずに、
 自分の心の充足感を上げることを目指す」ということ。

 手帳はもちろん有用だけど、
 制限とか思い込みとか責任感とか自責とか、
 そういうものが付きまとっている限り、
 自分を主体にして手帳をうまく使えるようになることあるんだろうか。

 厳しいかもしれないけど、そう思う。
 自分にはそう思っている。

 もちろん、手帳をきっかけに、意識していなかったことに気づいて、
 そういうものを少しずつ軽くしていくことは、当然できる。

 できるけど、その途中に、
 そういうものがほとんどなくなった人(もともと持っていない人)と比較したって、
 しょうがない。

 手帳をきっかけとして、

 制限を外していくとか、
 行動力を増していくとか、

 考え方が変わっていくとか、
 人との交流が増えていくとか、
 そういうことがちょっとずつでも身の回りに増えていくなら、

 それって十分手帳活用しているってことだと思う。

 実際のスケジュールややることをうまくこなせなくても。

 そうすることで、さらに手帳がうまく回るようになるんだろう。
 だから、手帳は変化をもたらすきっかけ、くらいでいいんじゃないかな~。

 変化をもたらすだけでも、十分

 そんなに過大な期待したって、自分が同じなら、何を使ったって変わらない。

 「手帳をうまく活用すること」に思い悩んで動けなくなるくらいなら、
 「手帳や~めた」って思って、
 やれることをその場しのぎでもやった方が、何かは変わる気がする。

 効率は悪いし、うまくいってない気もするし、
 人に褒められることもないかもしれないし、
 ようやく知り合えた誰かとのつながりが切れる気もするかもしれないけど。

 やれないことは全部やめてしまって、
 その生活の中で「やっぱりこれはあった方がいいなあ」ということだけ
 再度始めてみるのもいいのかも。

 最終的に、やめる前と同じ形に戻ったとしても、
 必要度は違うし、
 自分で選んでるし、
 相手から与えられた形のまま受け入れてやろうとしていない分、
 やり方も意識も変わるはず。

 気づきは、受け取って、やってみて、少したって、
 「ああこれはこういうことだったんだ!」って時間差で訪れることが多い。

 進歩の道のりはジグザグ。
 そのジグザグが多分、最短距離なんだと思う。
 まっすぐに、受け入れるだけ受け入れて変わっていけるんだったら
 誰もこんなに困らないし、
 悩まない。

 だけど、そうはいかない。
 その場でわかった気になっても、身につくまでは時間がかかる。
 ジグザグの道のりの後、ちょっと戻って「ああ!」と思う。
 それが腑に落ちるってことだと思う。

 そのためには一度、捨ててみるのもあり。
 受け取ったものを捨てて、もう一度必要なものを見つけ出す。

 そうして取り出して再度選んで使おうと思うものは、
 多分自分に必要で使えるものなのだと思う。
 エッセンスにしても考え方にしてもやり方にしても。

 あの人がこういってたからこうすればうまく行くはずは、幻想。

 でも、「手帳が使えていない」という気持ちが強いということは、
 欲求が高いとか良くなりたいという思いが強いってことだから、
 その欲求とか嫉妬心とか焦りをうまく使えたらいいなと思う。

 どんな一歩を踏み出すかは、人それぞれ。
 あの人と私の一歩は違う。

 でも一歩が大きければ、当然遠くへ行ける。

 本来は誰でもその一歩目からジャンプ! できるものなのかもしれないけど、
 でも現在、いきなりジャンプは無理な人もいれば、
 10センチならOKの人、
 肩幅くらいなら進める人もいる。

 その幅を比べたって仕方ない。

 10センチから始めて、
 1年かけて、50センチの一歩が出せるようになった人と、
 今から始めようとする自分の10センチを比較したって意味がない。

 ものさしは違っていい。

 50センチずつ進みたい、みたいに
 こうなりたいというのもあっていい。

 だけど、あの人の最短距離が、自分の最短距離と同じ方法とは限らない。
 多くの人がそうであっても、自分がそうとは限らない。

 結果的に「ああ、最短距離だった!」と思ったとしても、
 その時点で「最短距離はこれだ!」なんてわかるかどうかはわからない。

 振り返るほどの道のりを進んでみないとわからないこともある。

 今はその途中。
 きっと、ひと月後、半年後、一年後、振り返ってみたら、
 自分に「よく頑張ってきたな」と思える日が来るのだ。


 無駄はない。

 人と違っても。

 できていないと思っていても。


 使っていても使っていなくても、
 変化を生んでいるのなら、十分に「活用できている」。