チャペルウエディング | フラチなスピリチュアル三昧のブログ

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ここ二回ほど日本におけるキリスト教文化の原点ともいえる、明治初期の美しい教会を紹介しました。


海外、特に長い歴史のある白人社会でのキリスト教文化は当然のごとくその社会、生活の中に深く根付いており、結婚式も勿論のこと教会で挙げるのはごく当たり前のことではあります。


そういった国々では、この風習は例えるなら日本人の全てのカップルが神社での神前結婚を挙げるようなものです。


日本に於いては宗派別の信者数はたいていの場合相当水増しされているので、実際のキリスト教系の教団の信者は多く見ても全人口の2%以内、実際には1%有るか無いかといったところなのではないでしょうか。


しかし多くの未婚女性にとって、彼女等の憧れである人生の一大イベントであるウエディングドレスを着るということは、教会での結婚式を挙げることと結びついているようで、一年前に式を挙げた自分の甥や姪も教会の礼拝堂を模したウエディング会社の式場で挙式をしました。


昔はどの地方都市でもたいていOO殿やOO閣といった結婚式専用の貸しホールが有りましたが、時代の変遷とともに段々とそれらのスタイルは廃れていき、そういった会場は何時しか葬儀場へと変わっていきました。


変わって登場したのが、結婚式、披露宴、パーティーをひと処で行うことができる民間のチャペルウエディングを謳ったおしゃれな施設です。


殆どの場合そこには礼拝堂(のようなもの)があり、さらには教会?と見まごうばかりの建物が併設されていたりします。



名古屋の駅裏にあたる亀島というところの交差点の角に非常に美しい教会があります。


その前を通るたびにその礼拝堂に入ってみたいと思っていたのですが、何故だかいつ通りかかっても正面の入り口の扉が堅く閉じられていました。


何という教会なのだろうと思いつつも、外を見てもそれらしい表示もなく何も書いていないので不思議だったのですが、ある時その近くに事務所を構えている人に何気なく聞いたところによると、それは実は教会ではなく、民間の結婚式場の施設だと言われ本当に驚いてしまいました。


今日もたまたまお昼間に用が有ってその前を通りましたが相変わらず閉まったままでした。


何処をどう見ても尖塔に十字架がかけられていてそれはやはり教会堂としかいえないのですが、今日もたまたま式を挙げる人がいなかったので扉が閉じられていたということだったのでしょう。


その話を事務所の社長から聞いた時には自分は本当にびっくりして思わず大きな声をあげてしまったほどですが、その時に咄嗟に脳裏に浮かんだのはいくらなんでもこれは少し違うのではないかという思いでした。



このことについて皆さんにちょっと面白いお話をしましょう。


自分が以前お店をやっていたときに、お客さんの繋がりでその存在を知って時々お参りに行っていた御堂があり、その直ぐ近くに団子を売っているお店が有りました。


そのお堂の関係の方に聞いたところによると、その団子屋さんのご主人は口はちょっと荒いけれども中々の男前で、実は或る結婚式場のアルバイトをやっており、時々式が入ると神父として結婚式に立ち会っているということでした。


彼ならば恐らく神父の格好をすれば、コスプレのように非常に似合ってさぞかし見栄えが良いことでしょう。


その式を挙げた前途明るい二人の男女も、彼が神父であるということを堅く信じて、神父である彼から祝福を受けたと露ほども疑うことなど無かったであろうと容易に想像できます。


しかし実際には彼らを祝福したのは・・・・・・・


神父のコスプレをした普段うちわで団子を焼いているおじさんなのです。


ここまで読まれた方は何とも詐欺のような酷い話だと思われたかも知れません。


しかしよくよく考えてみてください、チャペルウエディングと謳っている多くの施設もあくまでも教会に似せたものであって実際には教会ではなく、例の神父さんと本質は同じことなのです。


霊的な摂理について本当に大切なことは、形面上の事柄ではなくその内なる魂の本質こそがその人自身を表すものであり、それこそがその人自身の人生に於いて彼と言う存在を表現し、それによってある意味彼は試されもするということが彼の人生の大切な一側面であるといえるのです。


特に若い女性の方で、もしもご自分の思い描く挙式を挙げられたいと思われる方がみえましたら、本当の教会で挙式されることも考えられてみては如何でしょうか。


以前のブログでご紹介しました名古屋の布池教会などは、結婚式も挙げることが出来るようですし、お住まいの地域でも必ずそういった教会は探せば見つかると思います。


但し、何度かは神父さんのお話を聞かなければいけない場合がひょっとしたらあるかもしれません。


でもその経験はお二人のこれからの人生にとって必ずや血となり肉となり、その人生を鼓舞するものとなることでしょう。


そういったところで式を挙げられたことは、お二人にとって素晴らしい経験となり、きっと善き思い出となり長らく魂に刻まれることと確信します。


似非の教会でシナリオ通りの団子屋さんのお話を聞くより、本当の神父さんのお話を聞くほうがはるかに言葉に良い波動が込められていると思いませんか?


カトリック布池教会


(神父とはカソリックの聖職者のことを言い、牧師はプロテスタントの聖職者をそう呼びます。
カソリックは聖職者の階級によって違いがあり、基本結婚することができまん。
それに対して牧師はイエス様の言葉である「私は羊飼いである」という言葉からそう呼ばれるようになりました。
牧師は羊飼いであって信者の上に立つものではなく、あくまでも信者と同じ立場であるということです。
主イエスもまた、「私もあなた方と同じである」ということを言われています。