実は先週末、2日徹夜して米国のある有名な番組の特集の台本起こしのお仕事を勤めた。

その番組とは、私も子供のころずっと観ていた「魂の列車(もちろん訳)」である。

そしてその番組の特集とは、あのMJに関してのものだ。

番組が放映され始めたのは73年。

ほぼ開始と同時にJ5が登場する。

J5の出演と共に番組も大成功をおさめた。

そのJ5とソロアーチストとしてのMJの登場する、73年から96年までの特集の台本起こし(英語)をしたのだ。

2日通して、MJの幼少時からの成長、成功、そして。。。変貌をノンストップで見続けて、そして咀嚼し、そして彼の「意」を私を通じて、言葉に起こす作業。

長年、通訳として、そして媒体として生きてきたが、このような経験は初めてだった。


いつも述べているように、我々全人類の各々が唯一の存在であり、各々がオリジナルで、そして偉大な生命だ。

しかし、傾向性や共通性に、ある程度「共感すること」もしくは自分の生をフィルターにして、「理解できそうな」要素を見出すことができる。

回りくどいな。


なにを述べたいか。。。


私はずっと忘れていた。


私がかつて知っていたように、マイケルはアフロアメリカンの男の子だったのだ。


それもGary, Indiana出身の、アフロアメリカン訛りの言葉でしゃべる少年だったのだ。


彼の成長と変化を自分に取り入れながら、そして言葉を自己に憑依させているうちに。。。


私は3回吐いた。


あまりに悲しくて。。。


あまりに哀れで。。。


あまりに可哀想で。。。


彼はThriller以前から変わり始めた。

容姿だけではない、言葉使いも大変化を遂げていった。

そこには、彼の深い複合観念、それも癒されることがなかった痛みと悲しみが感じられる。

が、同時に市場開拓へのSuperficialであり、かつしたたかなマーケティング戦略があまりに露骨に見えるのだ。


しかし、その後の凄まじい変貌には、どうしても「憂い」と「歪み」が表面化し、そしてその次の瞬間にはその痛みの要素が表皮上で蒸発して拡散していってしまう。


転換した私には、あまりに共感できるその深いところに存在する複合観念。


彼の中に存在したであろう、真の姿の表現化へのObsession。

そしてその強迫観念の根源。


先週の月曜の朝、作業をすべて終えたとき、

はじめて、Man in the mirrorの意を汲んだ気がした。


幸い私は一切の顔面整形は施していない。

体も一部のみである。


でも私も本当のKotaであるべく「変身・転換」を行った。


そこには、人格の完全破壊と蘇生が必要とされた。


Born again...In a literal sense.


MJの場合は。。。


我々が彼に求めたものは?


我々が彼に見出したものは?


彼を失った今こそ、This is NOT it.