今日は午後から渋谷でランチ協議。
マークシティで中華を摂りつつ再び自己探求の旅へ。
「今後」に関して研究した。
おなか一杯なのに、帰宅後ビビンバ麺をこさえ、玄米を炊く。
ビビンバ麺が辛すぎ・熱すぎで、玄米・白州で落ち着いた。
食事しながら、TVをつける。
ああ、また巨人勝ってるんだ。
実は金曜日の対阪神戦の初戦はお呼ばれでドームに行ったのだ。
はじめてドームの2階席で観戦した。
新鮮だった。
阪神の応援すっごい。
益々凄くなっている。
Yankee StadiumのRight Field Bleachersの連中にも見せてあげたいな。
90年、まだダイエーに在籍していたころ、ホークスとタイガースは共に最下位に定着していた。
その春のオープン戦、ガラガラの平和台で阪神の応援団から、「お~い、だいえ~、がんばれや~!」とのエールが上がり、それにホークスの応援団から、「おまえらもなあ~!」と爆笑合戦していた時代とはエライ違いや。
でもドームにお客さん、いっぱい入ってた。
よかったね。
すぽ事のみんなこの数年苦労したもんね。
さて昨日の続きをはじめよう。
両性具有~日本国同性愛の歴史2
薩摩隼人が男色で有名であることは昨日紹介した。その根源は「契りをもって和となす」といったような秘密結社的な要素が存在するようだ。薩摩の文化や言語にその結社的なもの中核にあるのは周知の事実である。
そのためか、薩摩の男色文化は都における稚児の世界とは異なり、武家特有の荒いものであったようだ。
若い少年たちは「兵児二才(へこにせ)」と呼ばれた。余談であるが、「兵児帯(へこたい)」はここから来ている。文献によると、7歳から14歳までの少年たちは「兵児山」と呼ばれ、14歳から20歳までを「兵児二才」と呼んだ。そして20歳から30歳までの大人たちを「中老」とし兵児のグループをマネージした。
当然、武士の組織であったため武芸と礼節を磨くことを中心とした。
特に薩摩隼人の間には、「恥を知る」ということが大切にされた。彼らの結社的つながりには「菊花の契り」が重んじられ、この「契り」を結ばぬような男は一人前とは見なされなかったという。
これらの「契り」は何も薩摩のみのものではなく、武士の歴史のなかではそこら中に溢れている。
しかし、西郷隆盛に薩摩の兵児らが賊軍と見なされようが最後までついていったのはこのような背景も加担しているのであろう。
西郷にはさまざまな男児の愛人がいたようで、それは小説「よかちごの死」に詳しい。内容は西郷の愛する稚児が主人公の嫉妬で殺されてしまう、というものだ。
織田信長と蘭丸しかり、わが国には稚児文化が社会の上層に行けば行くほど溢れていたのだ。
男性に限ったことではない。宝塚歌劇のような女性世界の両性具有的社会の下地はもともと文化の一環として存在していたのだ。これも詳しく展開するつもりだ。
しかし、またここで述べなければならない。
両性具有と同性愛はニュアンスが異なる、と。
これはMale to Female、そしてFemale to Maleの同胞の間でも話題にあがることが多いのだが、
M to Fの同性愛者(つまり女性に転換したが、女性が好き)、そしてF to Mの同性愛者(つまり男性に転換したが男性が好き)といった文章にすると混乱しそうになる状況もあるのだ。
つまり、男性から女性になったとしても別に男性が好きだったから、というわけではなく、恋愛対象以前に我々の場合は自分の違和感である、ということもある、の意である。
私もこの部類に属する。
今は男性が恋愛対象の時期となっているが、
人を愛するということは、「性別に関係ないもの。その方の魂を愛すること」と思っている。
いや確信している。
元妻のことは愛していた。
いや今も愛している。
彼女への愛の形は、恋愛から家族への愛に変化したが。
しかし愛は不変のものであろう。
たとえ環境や時が変化しても。
いったい、この地球上にどれだけの愛の念が生まれ、そして大気中に浮揚していったことであろうか?
この雨が空けたら、
もう秋がくるね。
マークシティで中華を摂りつつ再び自己探求の旅へ。
「今後」に関して研究した。
おなか一杯なのに、帰宅後ビビンバ麺をこさえ、玄米を炊く。
ビビンバ麺が辛すぎ・熱すぎで、玄米・白州で落ち着いた。
食事しながら、TVをつける。
ああ、また巨人勝ってるんだ。
実は金曜日の対阪神戦の初戦はお呼ばれでドームに行ったのだ。
はじめてドームの2階席で観戦した。
新鮮だった。
阪神の応援すっごい。
益々凄くなっている。
Yankee StadiumのRight Field Bleachersの連中にも見せてあげたいな。
90年、まだダイエーに在籍していたころ、ホークスとタイガースは共に最下位に定着していた。
その春のオープン戦、ガラガラの平和台で阪神の応援団から、「お~い、だいえ~、がんばれや~!」とのエールが上がり、それにホークスの応援団から、「おまえらもなあ~!」と爆笑合戦していた時代とはエライ違いや。
でもドームにお客さん、いっぱい入ってた。
よかったね。
すぽ事のみんなこの数年苦労したもんね。
さて昨日の続きをはじめよう。
両性具有~日本国同性愛の歴史2
薩摩隼人が男色で有名であることは昨日紹介した。その根源は「契りをもって和となす」といったような秘密結社的な要素が存在するようだ。薩摩の文化や言語にその結社的なもの中核にあるのは周知の事実である。
そのためか、薩摩の男色文化は都における稚児の世界とは異なり、武家特有の荒いものであったようだ。
若い少年たちは「兵児二才(へこにせ)」と呼ばれた。余談であるが、「兵児帯(へこたい)」はここから来ている。文献によると、7歳から14歳までの少年たちは「兵児山」と呼ばれ、14歳から20歳までを「兵児二才」と呼んだ。そして20歳から30歳までの大人たちを「中老」とし兵児のグループをマネージした。
当然、武士の組織であったため武芸と礼節を磨くことを中心とした。
特に薩摩隼人の間には、「恥を知る」ということが大切にされた。彼らの結社的つながりには「菊花の契り」が重んじられ、この「契り」を結ばぬような男は一人前とは見なされなかったという。
これらの「契り」は何も薩摩のみのものではなく、武士の歴史のなかではそこら中に溢れている。
しかし、西郷隆盛に薩摩の兵児らが賊軍と見なされようが最後までついていったのはこのような背景も加担しているのであろう。
西郷にはさまざまな男児の愛人がいたようで、それは小説「よかちごの死」に詳しい。内容は西郷の愛する稚児が主人公の嫉妬で殺されてしまう、というものだ。
織田信長と蘭丸しかり、わが国には稚児文化が社会の上層に行けば行くほど溢れていたのだ。
男性に限ったことではない。宝塚歌劇のような女性世界の両性具有的社会の下地はもともと文化の一環として存在していたのだ。これも詳しく展開するつもりだ。
しかし、またここで述べなければならない。
両性具有と同性愛はニュアンスが異なる、と。
これはMale to Female、そしてFemale to Maleの同胞の間でも話題にあがることが多いのだが、
M to Fの同性愛者(つまり女性に転換したが、女性が好き)、そしてF to Mの同性愛者(つまり男性に転換したが男性が好き)といった文章にすると混乱しそうになる状況もあるのだ。
つまり、男性から女性になったとしても別に男性が好きだったから、というわけではなく、恋愛対象以前に我々の場合は自分の違和感である、ということもある、の意である。
私もこの部類に属する。
今は男性が恋愛対象の時期となっているが、
人を愛するということは、「性別に関係ないもの。その方の魂を愛すること」と思っている。
いや確信している。
元妻のことは愛していた。
いや今も愛している。
彼女への愛の形は、恋愛から家族への愛に変化したが。
しかし愛は不変のものであろう。
たとえ環境や時が変化しても。
いったい、この地球上にどれだけの愛の念が生まれ、そして大気中に浮揚していったことであろうか?
この雨が空けたら、
もう秋がくるね。