新居に移り4日が経った。

予想以上の変化が私に起きている。

火曜日に入居したものの、お付合いや協議会食が重なり昨夜はじめて一人で夕食を用意できた。

例によって五穀玄米とエビチリソースとスパイスで炒めたオムレツ。

TVがないので、インターネットで米PBS局のCharlie Roseのインタビューを流しながら食事をとった。

ウィークリーマンションのときとは全く異なる穏やかな時間。

食事の後、ちょっと近所を探索。


過去から現在に至る経由を考えてみた。

いつものような哀しさと虚しさがなかった。

井の頭線の音も穏やかに聞こえた。

ヴァージニア・ウルフの「オーランド」との類似を考察してみた。

小説”Orlando”の内容はこういうものだ。

オーランドはエリザベス女王に仕えるサックヴィル家の青年貴族であった。
エリザベスは彼の美しさを讃え、「決しておいてはならぬ(死んではならぬ)」と命令しガーダー勲章と館等を賜った。
エリザベスは亡くなり、ジェームス一世の時代になる。
オーランドーはロシアの姫と出会い、恋におちる。駆け落ちを約束するが、しかし姫に裏切られてしまう。
オーランドーは悲しみのあまりに昏睡状態に陥る。
6日間の眠りから醒めた彼は、詩人のグリーンのもとで詩の勉強を始める。
幼いときからサックヴィル家の館にある大きな樫の木の下で詩に関して夢想する。
この木はサックヴィル家を象徴するものであり、彼の創造の源そのものでもある。
しかしオーランドが創った詩はグリーンに嘲笑されてしまう。
絶望した主人公はイングランドを捨ててオリエントに旅立ってしまう。
オリエントの王子に気に入られたオーランドは兄弟の契りを結ぶ。しかしその国が戦争するはめになり、前線でのショックでまた昏睡状態に陥ってしまう。

7日目に目覚めた時、オーランドは女性になっていた。
「同じ自分で、何も変わってはいない。変わったのは性だけだ」と彼女は呟いた。
時は移り、1750年彼女は再びイングランドに戻っている。社交界の花形となっていたが、財産権のない当時の女性として絶望してしまう。
草原で倒れふした彼女は天に向かって、「天よ、自然よ、あなたの花嫁にしてください」と叫ぶ。
そこに新大陸アメリカからやってきた青年が登場する。
2人は自由と愛に関して語り合い、そして恋に陥る。
そこにヴィクトリア女王からの使者が現れ、「男の子を生まなければ財産は没収する」との通達を受ける。
青年は「共にアメリカに移ろう」と誘うが、オーランドは拒絶する。
彼女は妊娠し、戦火の中を逃げまとう。
時代は第2次世界大戦に移っている。

そして現代のロンドン。
厚い原稿を編集者に渡している。編集者は詩人のグリーンに酷似している。
「この量を書くのにどれだけかかったのかね?」と問われるが、オーランドには答えることができない。

エリザベスの時代からすでに400年が経過していた。
ようやく彼女は没収された館を子供と共に訪れ、自分の肖像画を見つめた。

というものだ。92年制作の映画”Orlando"ではTilda Swintonがすばらしい演技で彼/彼女を表現した。
下記の映像は映画の最後の8分間だ。小説とは異なり子供は女子に設定されている。



私はこの映画の公開当時、見に行くことができなかった。

小説は学生時代に読んでいたので、見に行くことが怖かったのだ。

数年が経て米国のケーブルで流れていたときも観れなかった。

トランスジェンダーとして、英国~米国~インド~米国との狭間に生きてきた者として、被虐待者として、そしてすべてを失った者として、あまりに内容が酷似していたため、ながいこと直視できなかったのだ。

でもこの最後のシーンは、昨日のManhattan同様に今の私を表現している。

最後の天使も。

私も4歳の時、イングランドの空に同じように天使を観たことがある。

一緒にいた両親はとりあってくれなかったけど。

映画のなかでエリザベス女王を演じたのは、Quentin Crisp。

我々の大大先輩だ。

性の狭間を最後まで体現した巨人だ。

彼がStingの”Englishman in New York”なのだ。

Quentinに関してはまた明日紹介しよう。

どうかTildaの両性具有を極限までに表現した透明な美しさを堪能してほしい。