安土時代の武将・明智光秀は信長の命により、丹波攻略の途に付きましたが、当時、丹波一帯は豪族・波多野秀治が統治していました。波多野秀治は山城・八上城にこもり頑強に抵抗しました。光秀は信長の機嫌を損ねる事を恐れ、正面作戦を放棄、懐柔作戦に出ました。
篠山城跡から八上城跡を望む
八上城跡(右方角)
八上城跡(高城山)
光秀は自分の母(一説には乳母とも)を人質に差出し、秀治に下山を勧めます。信長に掛け合い命を保障すると。しかし、信長はそれを許さず、秀治を処刑します。これで怒った八上城の家来衆は、人質の光秀の母を、松の大木に縛り、処刑。今でも山上にその松が存在します。
これで、2代続いた、皇家の流れを汲む名家、波多野家は滅びます。時に、1575年です。この山城は、関ヶ原の合戦後、篠山城が、藤堂高虎の縄張りで完成するとともに、廃城となりました。
地元では、この八上城の在った山を、高城山と呼んでいます。高さ400メートル程の小高い山です。現在は、ハイキングコースに成っています。頂上に至る、途中には血洗いの池とか、家老屋敷跡などがあります。