●インド六派哲学-二元論の登場- | 日々是修行~人生の「道」を求めて

●インド六派哲学-二元論の登場-

ガンジス河の中・下流域で都市が発達し、

仏教などの自由な思想が産まれて居た頃、

 

ガンジス河の上流域では、依然としてバラモン文化が中心で、

 

仏教などの自由思想に対応すべく、自らを理論武装して体系化し、

正統派の思想や学問が育まれて行ったようです。

 

「六派哲学」とは、正統バラモンの6つの哲学学派で、

 

言わば「ヴェーダ聖典」の権威を認めている学派です。

 

「六派哲学」には、サーンキヤ学派ヨーガ学派

 

ヴァイシェーシカ学派ニヤーヤ学派

ヴェーダーンタ学派ミーマーンサー学派があり、

それぞれのペアは姉妹学派です。

 

此処ではサーンキヤ学派とヨーガ学派。

 

そしてヴェーダーンタ学派に簡単に触れて行きたいと思います。

 

先ずは、サーンキヤ哲学です。

 

 

何故なら、「ヨーガ・スートラ」はサーンキヤ哲学をベースに書かれており、

 

その大まかな概念を押さえておかないと、スートラを読んで混乱するからです。

そして今まで順を追って大急ぎで歴史を追いかけて来たのも、

ここをお話したかったからと言っても過言ではありません。

 

サーンキヤ哲学は「二元論」です。

 

 

「ヴェーダ」の時代を私は「一元論の時代」と名付けましたが、

 

その「全ての宇宙の根本原理はブラフマン」であり、

「ブラフマンはアートマンと同一である」という考えは、

 

言ってみれば、直観知に優れていたであろうウパニシャッドの哲人達が

 

瞑想等で感じ取ったものであって、論理的に弁証されたものではありません。

 

そうすると当然、こんな疑問も産まれて来ます。

 

 

その「一元」なるものは、何のきっかけで、何のために世界を創り始めたのか?

 

何か必要があったのなら、「一元」なるものは完全無欠じゃ無いじゃないか?

 

創り出されたこの世界は清浄なものも在れば不浄なものもある。

 

完全無欠のものから不浄なものが産まれるなんておかしいし、

 

「一元」なるものは、どこを取っても同質のはずで、

 

そもそも清浄と不浄が在るなんておかしいじゃないか?

 

イチャモンと言えば、イチャモンの様ですが、

 

当時の人達はそんな疑問を哲学していきました。

 

サーンキヤ哲学では、唯一なる「一元」なるものの代わりに

 

二つの究極的な原理を想定しました。

 

精神的原理としての「プルシャ」と

 

物質原理としての「プラクリティ」です。

 

純粋精神としての「プルシャ」は、単に目撃者に過ぎず、

 

自らは何の活動もせず、言わば「見るもの」です。

 

一方の「プラクリティ」は、サットヴァ・ラジャス・タマスと言う

 

3つの「グナ」からなり、その平衡状態が破られた時、

世界を展開し始めます。

 

シニアからのYOGA的生活-サーンキヤ哲学

 

 

先ずは統覚機能である「ブッティ」が生じ、そこから

 

自我意識である「アハンカーラ」が生じ、

そこから11の器官(5感覚器官、5行為器官、マナス)

5微細要素(色・声・香・味・触)、5元素(空・風・火・水・地)が生じます。

 

プラクリティから展開したこちらは、プルシャの「見るもの」に対して、

 

言わば「見られるもの」です。

 

しかし私達は、この2つが「ごっちゃ」になってしまっているので、

 

それらをきちんと「識別」できれば、本来の姿に戻れると言う訳です。


こうしてサーンキヤ哲学では、「二元」とすることで、

言わば「聖なるもの」を保証したとも言えると思います。

 

本日もお読みいただき、感謝です。