まだ、あとすこし、さいごの乗務がこれから残っていたが、ただ、それまでの時間をいまは控え室に戻って休む気にもなれず、それで、ぼくは、そのまま、しごといがい、制服の時は、おもてのエレベーターを、エレベーターボーイも乗られない決まりだったから、うらの人貨用のエレベーターを使って、屋上に行った。

屋上は、さっきまで、ふたりでいたときと、わずかに、あのとき莎恵がやった、あめのしずくを指で結んだ車のボディに、そのあとかたが失せてしまったくらいで、ほかは、ほとんどなにも変わりがなかった。

ただ、あたまのうえで跳ねるシートの雨音は莎恵の予報に近付いているかのように、だいぶようすが穏やかになっていた。

事故防止の金網に顔を寄せると、路線バスの発着場を突っ切って渋谷駅に向かう傘の流れと首都高速道路を疾走する車の流れが、それぞれ、真下と、そして右手に見えた。

ふと、そこから、いまさっきとはいえ、いまはもう、はかない願望でしかないが、それでも、もしかしたらまだ莎恵の姿がそこに見えるのではないかと、こんなことは、みじめったらしいとわかりながらも、そうおもったらもうたまらなくなって、もっと真下を覗こうと、ぼくは躰を金網に擦りつけた。

そのひょうしにベストの制服の内ポケットに折り畳んで入れてあった母の手紙が肌に透けてきた。

母の手紙は、すでに読むまえに、いつものことと内容は想像できていたが、読んでみると、やはり案の定だった。

去年に続いて、ことしの夏もぼくは帰省しなかったが、それにたいする母親らしいといえばいえるか、こまごました心配と愚痴だった。そして、さいごに、ことしの正月に帰ってくるのを、父さんといっしょに楽しみにしてる、と、ありきたりだが、ありがたい文章で締め括ってあった。

手紙を、折り目に沿って畳んで、制服の内ポケットに仕舞うと、ぼくは、ふたたび、雨に煙った夜景に目をやった。

そこには、ひとの、さまざまな息遣いがあふれていた。たとえば、あのビルの窓から溢れる灯のなかに。そして首都高速道路を疾走する車のなかに。それらのひとつひとつが、ひとが生きている、という、懸命な証だった。

じぶんは、どうなのか?

もういちど、どうして、こうも、じぶんはめめしいのか、と、それを呪いながらも、莎恵の姿を探して、駅に向かう雑踏を覗いた。

もちろん、わかりきったことだが、そのなかに彼女の姿を見つけられるはずもなかった。

彼女は、すでに電車に揺られて、いまごろはとっくに渋谷駅にすらいないかもしれない。いや、とっくに愛する男の元に向かって、そこにはいないだろう。

ふいに唇を噛み締めても、どうしても止まらない涙が不覚にもこぼれた。いまさらながら、じぶんのこころの傷の深さをそれでしった。

彼女への思いを、しかたないことだが、いまだにぼくは払拭できないでいるのだ。

そういえば、さっき頬笑みながら、莎恵が隠した涙、あれはなんだったのだろうかと、じぶんの涙と比較しておもった。

あれこれ、おもいでをいじくって、それを考えたが、いたずらに、ただ、さまざまな感情が入りみだれ、もつれあうばかりで、はっきりした答は得られなかった。いや、そうではない。じぶんのつごうのよい答を得やすいよう、おもいでの秤が傾こうとするので、とちゅうで考えるのを、やめたのだった。

彼女の涙は・・それを認めたら、あまりにも、じぶんが惨めすぎた。

いずれにしろ、いつか、どうなるか、わからないのが、ひとの世の定めというものだった。

もしかしたら、ぼくのこの一年ばかりは、かぎられただいじな人生の無駄遣いだったかもしれない。

しかし、たとえ、それが、そうだとしても、それこそが、ひとの生きている証だとおもった。

ぼくは、とりあえず、いまを確実に生きていた。莎恵も、そうだった、たしかに生きている。

ひとにほこれるほど懸命かどうかはべつにして、ともかく生きている、いまはそれでいいようにおもえた。

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これは、昭和51年当時、7階の休憩室の一隅に詰めて、こつこつ書き溜めたわが拙著・「東横線最終電車」の一部抜粋である。

内容は、どうということのない、ありきたりな恋愛ものだった。そして、ひとには自伝の体裁を装いつつも、じつは、じぶんもふくめて、登場人物の設定とか、さらには環境や時代の背景なども、だいぶ、おもしろく脚色してあった。

ただ、それでも、あきらかに、そこには、屋上で、もしかしたらと、わすれられないおんなの俤をしつこく探したのはほんとうだし、そのころのじぶんがいる。

おととい、さいごの日を迎えた東急プラザ渋谷店に行ってきた。あまりゆっくりする時間がなかったので、全館、ほとんど駆け足だったが、いちばんあとに9階から非常階段を使って屋上にのぼった。

そして、あのころのじぶんを探すように、おなじ場所に立ってみた。


プラザの地下1階は、いまも食品売り場であるが、そこに、昭和51年当時は、エレベーターの2号機を降りた、すぐ右手にカウンター席だけの、ちいさなピザショップがあって、じぶんが、はじめてピザなるものを食したのが、そこだった。

40年ほども前のことである。

いなかで育って上京したわたしは、そんな食べ物があることさら、それまで知らなかった、のだった。

そこに潜りこんで、やっと半年くらい、ようやく、すこしみんなと仲良くなったころである、ぽっんと控え室で休憩していると、エレベーターガールのひとりにお昼に誘われたのだった。

彼女がピザとトマトジュースを頼んだので、はじめての体験でじぶんからは手も足も出なかったから、わたしも同じ物わを注文した。

いまからおもうと、それほどまだ親しくもなかったわたしを誘うのには、それなりのわけがあったにちがいない。

きっとわたしになら、どんな愚痴をこぼしても、だまって聞いてくる、と、そう思ったのではないか。

じぶんはしかし、それまで接して彼女が思ったような聞き上手だったわけではなかった。

たしかに、みんなといて口数が少なかったが、それは、たぶんに人見知りのせいだった。

それどころか、だれかとふたりっきりになると、がぜんおじゃべりになった。会話が途切れて場が白けるのが、死ぬより怖かったのだ。それは知り合って間が浅ければ浅いほど、そうだった。

そのときのわたしも、誘ってくれた感謝の気持ちもあったし、あいてを退屈させまいと、それはもう間断なく喋り続けたのだった。

休憩は、わたしの一方的な熱弁のうちに、たちまち終わった。

彼女は苦笑して、たのしかったわ、といい、わたしが誘ったのだから、と、わたしの分も会計を済ませてくれた。

制服では、仕事以外、エレベーターに乗ってはいけない規則の彼女と、なんとなくそこでわかれたが、そのわかれしな、彼女は頬笑みながら、きらりと涙をみせた。

そのとき、ふと、まえにもいちど、それとおなじ涙を見たことを思いだした。そのひとは、それから間もなく堕胎したと噂にきいた。

彼女は、どうなったのか、つきあっていたあいてをのこして、それから間もなく退社して、それっきりである。

ところで、そのころのなごりか、わたしは、いまも、ピザを食べるときは、かならずトマトジュースを頼んでいる。
昭和51年11月23日(火) 香西

本日、3名勤務。高田、香西、児玉。
吉田・本日と昨日が入れ換っているのを知らず欠勤。
矢部氏・連続ナシ
蛯原・連続ナシ。電話した所、頭痛で欠勤とのこと。
本日は大変疲れた。本来なら、これで終わりだが、あと30分も乗らなければならない。
苦痛の一言につきる。

これを読んで、火曜日なら、うらの人貨用のエレベーターを動かしに出勤しているはずだから、じぶんがその補充にあたったらいいのに、どうして、それをやらなかったのかと、ふしぎに思ったら、それもどうりで11月23日は「勤労感謝の日」で祭日なのである、そして、うらのエレベーターの操縦は日曜、祭日が休みだった。

しかも当時電話は贅沢品だった。だから、だれもアパートに電話を引くことなど、じょうだんでも考えが及ばなかった。じぶんも、もちろん、そうだった。だから、実家住まいでもなければ、どれほど早急に連絡を取りたと切羽詰まっても、なかなか難しかった。

いまからは考えられないほど不便な生活環境だったように思うが、せっかくの休みを邪魔されないですむのである、それはそれでよかったように、そういう面では思う。

いまだったら3名勤務と泣きつかれたら、その辛さを身をもって知っているから、もしかしたら女の誘いを振り払っても駆けつけたかもしれない。

そんなわけないか。