「あの……お嬢様」

 先程の可愛らしい声をした女中が私に声を発する。

 私が視線を向けると彼女は慌てて私に跪き深く頭を垂れた。

「お車の準備が調いました故、お迎えに上がりました」

「そうですか。ありがとうございます……それと」

 彼女は少し顔を上げると私を直視した。その素直な瞳が私には眩しい。

「どうぞお立ち下さい。顔も上げて」

 そう言うと彼女は慌てて再び頭を垂れた。

「そんな、滅相もございません」

 額を床につけて頭を振る。その行為が何とも可愛らしくて私はくすりと笑った。

「へ?」

 思わず顔を上げた彼女は私の顔を見て顔を緩ませた。

「どうかなさいましたか?」

「いいえ。行きましょうか」

 場はすっかり和やかになった。彼女には親しみを覚える。いつからこんな感情を忘れてしまったんだろう。いや、元よりそんな感情は持ち合わせていなかったのかもしれない。

 私が歩き出すと、彼女は後ろから慌てて付いて来た。本当、可愛い。

「お嬢様っ? お車は遙様と一緒ですよ」

 息を弾ませて楽しそうに、可愛らしそうに言う彼女には悪いがその一言で私は酷く落ち込んだ。

「ー……そうですか」

 その様子に何かを察したのだろう。彼女は黙り込んでしまった。

 しかし、そう思ってみるのも束の間、彼女は再び口を開いた。

「お嬢様は、遙様のお話しをすると何か、悲しそうな顔をなさいますね」

「え?」

 淡々と発せられた彼女の言葉を理解出来ていない訳ではない。ただ、突然のことに驚いたのだ。今日、始めて口をきいたはずの彼女にこんなことを言われるなんて、と。

「悲しそうというより、深刻そうな顔をしているというか……お気に障ったら申し訳ありません。しかし、私の目にはそう映ったのでございます」

「ー……そうですか」

 皆、私を恐れて私に近づくことを極端に恐れる女中ばかりだと思っていたのに、彼女は……。

「ー……全くその通りです」

 苦々しげに私が言うと、彼女は私の横に並んで歩き始めた。

「何か……お力になれることがあるのなら、何なりとお申し付け下さい」

 その瞳に映ったものは使用人としての業務ではないものだった。こんなに温かいものに触れたことはない。

「申し付けはしません」

「え?」

「その言葉、使用人としての立場で言われたのではないでしょう? 私はそう信じたいです」

 そう言うと彼女はぱあっと顔を輝かせた。その顔は私には眩し過ぎるぐらいに。

「勿論です!」

 少し幼さが残った顔は愛らしい。

「名は何というのですか?」

「今村梢(いまむらこずえ)です」





 「それでは、いってらっしゃいませ」

 梢さんがそう言うと私は微笑しながら頷いて車に乗り込んだ。

 この椿家にも私を理解してくれる者がいるーそれだけで何か救われたような気分になった。

 隣りにはお兄様がいるが、そんなことも忘れてしまう位に。

「美和」

 お兄様が口を開いた。

 先程、あんなに酷いことを言っておきながらその数分後に私にこうして口を開くお兄様はどうかしているのだろうか? いや、あんなこと、何とも思っていないのかもしれない。

「今日日、古閑の者も来るのだろう」

 それは問いかけに聞こえて断定であった。

「そうですが」

 また、その話しか。

「先程言ったことを理解しているだろうな」

「しています」

 お兄様には顔も向けないでそう言う。

「ーが、命令に従うつもりはありません」

 きっ、と眉間に皺を寄せてお兄様を睨むと、面食らったように私を見つめ返していた。

「ー……ほう。よく言えるものだな、そのようなことが」

「どういう意味ですか?」

 睨み合いが始まる。勿論、どちらも怯まない。

「そのままの意味だ。まさかお前が分かっていないとは言うまい。椿家の不幸とはお前のことなのだぞ」

「存じております。ですが、そのような理由でお兄様の意見に従うつもりはないと言っているのです」

「ー……何だと? 次期当主は私だ。そのような分際でよくもそのような口がきけたと言っているのだ」

 今度は権力を盾に私を踏み潰すつもりか? そんなのは何て事はない。もう既に何回も踏み潰されているのだから。

「お言葉ですがお兄様。私は誰に何といわれようが服従する気は全くございませんし、それほどに言うのなら私は椿を出る覚悟です」

 更に眉間に皺を寄せると、お兄様も動揺にもっとキツく私を睨み返した。

「ー……そうか。それならその前にお前を更に痛めつけて椿を出る覚悟なぞ失くしてやらねばならぬな」

 この瞬間が嫌いだった。

 この命令には絶対に逆らえない。

「今夜もまた、な」

 何か理由がある訳ではない。

 が、この命令には逆らえないのだ。