鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

JR発足2年目の、昭和63年は日本一本列島というキャッチフレーズとともに、青函トンネルが3月に開通し、4月には本四備讃線が開業と言うことで、国鉄(新生JR)にとっても華やかな印象を与えるものでした。

特にJR時刻表では、JR各社の列車が並べられ手板のは印象的で、JR各社に分割されたとはいえ、全国ネットワークは維持されていると感じさせるには十分なものがありました。

その反面、JR各社の特徴も出てきたのが、昭和63年と言えました。

 国鉄時代からの決別

JR発足当初は、第三次特定地方交通線を中心に暫定的に新生JRが引き継ぐといった事例もあって、徐々にこうした特定地方交通線は第3セクター鉄道に移管されていったほか、智頭急行のように当初は建設が凍結されたものの、地元が引き受けると言うことで工事が再開された区間もありました。

このように、新生JRと旧国鉄時代の面影が入り交じる時代でした。

そして、国鉄時代からの決別という点では、長年親しんだ灰青色の国鉄時代の制服からJR各社のオリジナルの制服に替わったのも昭和63年でした。

国鉄改革法案が通過したのも昭和61年の秋であったこと、更には国鉄が赤字だったからと言うもっともらしい理由で、JR発足当初は、旧国鉄の制服にJR各社の社章をつけただけと言うことで、バッチを見なければどの会社か区別が付かなかったのでした。

 

 JR各社の意匠が制服に反映され

制服は、昭和63年4月から変更されることとなり、東日本では連続勤務に成る場合は、前日は旧の国鉄制服、0時以降は新制服を着用しろと強要されたと国労長野分会の絵はがきでは暴露していましたが、その他のJR各社ではどうだったのでしょうか。

長野支社だけの扱いだったのか、それとも・・・という裏が取れていない話もありましたが、それでも各社の個性が色濃く反映される結果となりました。

JR九州では、JRマークも赤色を採用するなどJR他社とは異なる動きでしたが、制服でもそれまでの官帽スタイルからドゴール帽に変更されて印象が大きく変わったり、その逆にJR東海のように、殆ど国鉄時代と変わらないようなイメージを採用した会社もありました。JR東海は帽章の徽章も国鉄時代の徽章をそのまま採用した他、駅名標などの文字も国鉄時代の丸フォントを採用しており、一番国鉄色を残している。そんなイメージを持ったものでした。

この辺は、名鉄局長もされた須田常務理事の意向が強く働いたとも言われています。

JR西日本では本州三社の中ではかなり地味な制服としてスタートしたように思えます。

国鉄時代から、指定職(専務車掌や駅長)などは夏は白制服、冬はダブルでしたが、JR西では夏場はグレーのジャケット、それ以外は紺のジャケットで指定職は袖の金線2本のみで、駅員も駅長も基本同じ制服であり、ボタンもマークなどが入った飾りボタンではなく、冬服であれば金メッキのボタンだけというシンプルなもので。JR東が華やかな制服を披露したのと比べると非常に地味なイメージを持ったものでした。

 

 動輪マークを捨てた、JR東日本、国鉄時代を踏襲したJR東海

 

更に、JR各社の特徴が出ていたのは帽章の徽章で、動輪マークを残したのは、JR北海道・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州であり、動輪マークを早々と採用しなかったのは、JR東日本・JR貨物であり、旅客会社に限れば国鉄の象徴でもあった動輪マークを採用しなかったのは東日本だけでした。

JR東日本は、国鉄時代を払拭しようとして国鉄色を消し去ろうとしていたのに対して、国鉄色を色濃く残そうとしたJR東海とは非常に大きな差異と成って現れました。

このようにして、JR各社は地域密着という美名の元独自の色を出していくのですが、それでも未だ未だJR各社は独立した組織であるとしても、旧管理局毎に知り合いも多い訳ですから、他社連携は比較的スムーズに行わていたわけで、国鉄時代同様に車掌などはそのまま終着まで乗り入れるなんてことも行われており、JR西日本管内で東日本の車掌を見かけるなんて事もありました。

このように、JR各社は2年目には、互いに人的には繋がりがあるとは言え、徐々に新しい時代に向けて動き出していくのでした。

 

続く

 

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