「インド式」インテリジェンス | 新書野郎

「インド式」インテリジェンス

「インド式」インテリジェンス-教育・ビジネス・政治を輝かせる多彩性の力 (祥伝社新書141) (祥伝社新書)「インド式」インテリジェンス-教育・ビジネス・政治を輝かせる多彩性の力 (祥伝社新書141) (祥伝社新書)
須田 アルナローラ

祥伝社 2009-01-30
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著者はグジャラート州出身でガイアナの大学にも勤務経験があるらしい。その後キャノンを経て、日本でソフトウェア開発会社をしているそうだが、何ともインド人らしい唯我独尊のものだった。とにかく日本は同質性を要求し過ぎであるからダメであって、インドは多彩性であるから素晴らしいのだという。日本がソフトウェアを開発できないのも、外国人を差別するのも、いじめがあるのも同質性の問題だそうなのだが、ちょっと単純化し過ぎではなかろうか。イジメなどは異質なものを排除する社会が原因などというのが「定説化」されているのだが、苛める側も苛められる側も異質な存在であることには変わりない。いわば異質なもの同士が勝手に浮かび上がっているのを周囲を傍観しているのが問題なのだろうが、それも異質なものの存在を認めているという見方もできる。インドが多彩性のある国であることは疑い様もない事実であるが、多彩性を認めているのと、多彩性があるとは大違いである。カースト制度も多彩性の枠組みで捉えているのだが、インド人が日本人になれない以上に、日本人がインド人になることもできない(中村屋のボースとか佐々井秀嶺の様な例外はあるが、外国人がヒンディー教徒になることは基本的にはない)。日本人に対して差別することはあまりないが、チベット系やネパール人に対する差別は酷い。ダウリー殺人などは社会の暗部であって平均的なものではないというが、著者の様な高学歴の女性経営者が社会の平均である訳もない。子どもに興味を持たせるなど考えずに、暗記させるだけという「インド式教育」は膨大な数の子どもを「教育」から置き去りにしているのではなかろうか。宗教紛争を全てパキスタンの責任にするのも結構だが、インドのヒンドゥー・ナショナリズムの動きなどをみると、とても「多彩性を認めている」とは思えん。むしろその「多彩性」が社会が機能しない原因であるとも思われる。