日本を支配する闇の権力者達(3)
300年間で築き上げた鉄壁の徳川幕藩体制!
明治天皇は徳川慶喜の義弟だった?
読者の皆様、こんにちは。
東日本大震災に伴う、福島原発の放射能漏れは今や世界中の関心事であると共に、地球規模での放射能汚染へと拡大しております。
政府・マスコミ・東電の信用は完全に失墜。
世界中から情報開示を求められております。
イギリス気象庁のシミュレーションによれば、福島原発よからの放射能漏れは、今や北半球の大部分に拡散している様です。
偏西風に乗って、カナダ・アメリカ・北アフリカ・ヨーロッパ・中央アジア・中国とほぼ地球を一周したのです。
申し上げておきますが、これはデマではありません。
文部科学省HPより公開されている、ドイツ・イギリス・ノルウェー・台湾からの公式なシミュレーション結果であります。
一般国民には目立たぬ様に公開しているのです。
「社会の混乱防止」が建前なので、ある意味仕方ないのかも知れません。
今月に入ってから、福島原発1号機の原子炉容器の圧力が上昇を続けております。
本日のデーターで10気圧。
測定上限が1Mpaですので、今後は測定不能となるやも知れません。
参考:福島原発 1号機 / 福島原発原子炉の状態 原子炉の圧力
世界各国は日本産の食料輸入を制限。
日本からの船舶の入港時には、放射線検査をしている模様です。
福島県産の野菜や原発沖合の魚が、安全かどうかの議論をしている場合では無いレベルです。
世界規模での放射能汚染シミュレーションを拝見しておりますと、日本の国土が狭いので日本中が汚染されている様に見えてしまうのです。
現在も放射能は偏西風と海流に乗って、拡散しているのです。
「ただちに人体には影響ありません」
私達は何度、この言葉を聞いたでしょうか?
内閣官房及び原子力保安院の「ただちに」の意味を再度、考えてみて下さい。
ここから先は、いつもの様に私の歴史ミステリーブログとしてお読み下さい。
さて、「日本を支配する闇の権力者達」も3回目を迎えました。
皇室と融合した5摂家が日本の国家権力の中枢である事を述べてきました。
5摂家、即ち藤原家が姿を変え分裂した「近衛家」・「一条家」・「九条家」・「三条家」・「鷹司家」。
これら由緒ある公家の名門家の集合体が、日本の国家なのであります。
この5摂家の実働部隊が武家。
武家の棟梁としての揺るぎ無い地位を獲得していたのが、ご存知徳川家です。
この徳川家とて、当初は藤原姓であったようです。
参考:徳川氏
1600年の関ヶ原の戦いに勝利。
徳川家康は征夷大将軍に。
参考:徳川家康
1868年に、15代将軍 徳川慶喜が大政奉還。
260年以上の長期政権が続いたのです。
参考:江戸幕府
参考:徳川慶喜 (写真:将軍時の徳川慶喜)
(写真:晩年の徳川慶喜)
徳川慶喜の父親は御三家である常陸水戸藩(水戸徳川家)9代目藩主であった徳川斉昭である。
参考:徳川斉昭
徳川慶喜の妻は一条美賀子 (写真下) 。
(写真:晩年の一条美香子)
一条美賀子は
本来、慶喜に嫁ぐ予定であった一条千代君(照姫)は天然痘を患って婚儀を取り止めた模様である。
一条美賀子の実父は今出川公久 。
この今出川公久は公卿 (くぎょう) である。
公卿とは日本の律令制における公家の中の最高幹部なのである。
この公卿は、時代とともに名前を変えていく。
公卿から太政官制度へ、そして内閣制度へと変貌していく。
終戦後の1947年になるまで貴族院は続いていたのである。
(画像下:貴族院 1946年11月3日 日本国憲法公布)
ご存じの様に、貴族院は廃止されて参議院となる。
参議院初代議長は元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男である松平恒雄 。
松平恒雄の長男、松平一郎は東京銀行 会長(現三菱東京UFJ)。
松平恒雄の妻である松平信子は、娘に秩父宮妃勢津子、姉に梨本宮妃伊都子がいる。
話を戻すが、慶喜と美賀子の間には子供が誕生したが早世。
慶喜は2人の側室との間に10男11女をもうける。
ここに、一挙にwikiから抜粋する。
◎正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名)
(今出川公久娘、一条忠香養女、天保6年7月19日~明治27年7月9日)
◎側室:新村信(松平政隆娘、新村猛雄養女、明治38年2月8日死去)
長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝夫人、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道夫人、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
五男:池田仲博(明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
六男:斉(明治11年8月17日 - 明治11年11月28日)
六女:良子(明治13年8月24日 - 明治13年9月29日)
九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
七男:徳川慶久(明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川國順夫人、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
十男:勝精(明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月10日)
(写真:徳川黎明會-東京都豊島区目白 財団法人徳川黎明会 )
◎側室:中根幸(中根芳三郎長女、大正4年12月29日死去)
次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
四男:徳川厚(明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶夫人、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉夫人、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕夫人、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛夫人、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
死産:男子(明治17年8月22日死産)
八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
九男:徳川誠(明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
死産:女子(明治24年6月2日死産)
◎妾:芳(新門辰五郎の娘)
抜粋終了。
なんとも凄い人数である。
恐らくこの21人の他にも、御落胤 がいたと推察される。
15代も続いた徳家全体を把握する事は、不可能に近いと思われる。
せめて徳川幕府最後の将軍の子孫だけでも追跡してみたい。
ここから気が遠くなる様な追跡が始まる。
主な人物について生まれ順に追跡していく。
慶喜4男-徳川厚 貴族院議員、東京海上火災取締役を歴任。天理教 の布教活動に尽力。
長男、喜翰(のぶたか) 男爵。貴族院議員。
次男、喜堅(よしかた) 男爵。陸軍少尉。
参考:徳川厚ファミリー
(写真:天理市 天理教本殿入口)
慶喜長女-鏡子 慶喜長女である鏡子は徳川達孝 の夫人となる。
関白 である一条忠香の養女である。
(写真:徳川鏡子)
徳川達孝は、伯爵。田安徳川家の9代目当主。
子の徳川須美子は溝口直亮の夫人となる。
溝口直亮は後の陸軍少将、陸軍政務次官、貴族院議員を務め翼賛政治会常任総務となる。
溝口直亮の実弟は大倉直介。
帝国ホテル、みずほコーポレート銀行、東京電力、大成建設、日清、サッポロビール等は大倉財閥系列である。
余談だが、創価学会名誉会長の池田大作は若かりし頃は大倉財閥の大倉商事勤務であった。
なんでも、この名誉会長は慶応医大におられるとか・・・
慶応義塾大学工学部の前身は藤原銀次郎
が設立した藤原工業大学
である。
(写真:大倉喜八郎)
(写真:明治村帝国ホテル)
鏡子の娘である徳川繡子は徳川武定 の妻となる。
徳川武定は海軍技術中将。工学博士。子爵。東京帝国大学教授。
軍艦の神様と呼ばれ、海軍技術中将、東京帝国大学総長の平賀譲 の部下であった。
この平賀譲も先祖は毛利元就の時代からの重臣である。
徳川武定は戦後、防衛庁技術研究所や川崎重工業の顧問を歴任。
(写真:戦艦大和)
徳川達孝には後妻がいた。
仇敵であるはずの島津家とも深く繋がっていたのである。
この後妻との間に生まれたのが、徳川達成 。
徳川達成の兄が徳川宗家16代当主、徳川家達 である。
徳川達成は日本海軍技術大佐、戦後は服部時計店 の社外重役を務めていた。
服部時計店は、現在のセイコーホールディングス である。
冒頭で紹介した徳川慶喜の正室であった、一条美賀子と明治天皇の皇后は義理の姉妹である。
ここに、明治天皇は徳川慶喜の義理の弟である事実が判明するのである
参考:昭憲皇太后
(写真下)
この様に、徳川家は藤原5摂家と血縁関係を強化していったのである。
そして、帝国陸海軍の中枢に君臨。
まさに帝国陸海軍は徳川家の旗本の様でもある。
子孫は資本家とも融合していく。
更には宗教法人も育成。
これらは、ほんの一例に過ぎない。
次回は、徳川宗家16代当主である徳川家達をご紹介する。
徳川幕府は現代においても、その絶大なる権力を保持しているのである。
そろそろ妄想が酷くなって来た様なので、本日は失礼致します。
今回も最後まで読んで頂きましてありがとうございました。
(敬称略)
追伸:こちらのブログにも、是非お越し下さい。
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/