≪注意書き:ご服用に当たって≫~~~~~~~~~
『赤いカプセル』は用法・用量をしっかり守って服用してください。それと、本剤はなるべく(vol.1)から順番に‘急がず・あわてず’服用してください。さもないと、あなたの健康を害する恐れがあります。
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『新しい歴史認識(3)』について、前号に引き続き取り上げていきましょう。


さて、大東亜戦争のことを、『アジアの忠臣蔵』とよぶ人もいます。

忠臣蔵は、主君に対する‘忠’と、自分たち自身の‘義’を示すために立ち上がった四十七士の物語ですが、この47人の士の中には、自分の欲や利益のために戦った人間は一人もいなかったと言われています。

彼らは、たとえ主人の仇打ちが成就されたとしても、自分たち全員が死罪となることを知っていましたが、その覚悟の上で12月14日の討ち入りを決行し、大願を成就させたのです。

この物語は、事件から300年以上が経った現在でも、人気の衰える様子が全くなく、主演の大石内蔵助を演じることは、役者として最高の誉れと言われています。

そして、忠臣蔵が長きにわたって日本人の人気を博してきたのは、単に『赤穂浪士側が正義、吉良側が悪』といった単純な構図だけではなく、双方の立場から見た作品が、演劇や文章として作られてきた点にもあろうかと思います。

忠臣蔵の舞台となった事件や出来事にも、その時代を背景とした『原因と結果』があり、双方がそれぞれ評価された結果、この物語が美談・美挙として残されてきました。


しかしながら、大東亜戦争はその『原因』が一切不問にされ、『結果』だけを評価され、特定の国からは‘ひきょう者’‘残虐者’呼ばわりされる状態になっています。

しかも、その「結果」についても、戦勝国にとって都合の良い「結果」だけが語られているという次元ではなく、

◆ 公正な事実が隠されたり、
◆ 事実無根の‘濡れ衣’、より正確に言えば‘ねつ造された事実’を着せられたり

といった、『歪められた事実』が‘結果’として評価され、それに基づいた糾弾を受けてきました。しかも、いまだに。


しかし、本当の事実はどうだったのでしょうか?


前回のラストに引き続き、この大東亜戦争について、戦勝国側(連合国)と敗戦国側(日本)を除いた『第三者の発言』から、私たちが決して教えられてこなかった『新しい歴史認識』を探っていきたいと思います。


※印は、筆者の所感と注釈です。

● アーノルド・J・トインビー(世界的に著名なイギリスの歴史学者)

「第二次世界大戦において、日本人は日本のためよりもむしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残した。 それらの国々とは、日本の掲げた短命な理想、すなわち『大東亜共栄圏』に含まれた国々である。 日本人が歴史上残した最大の業績は、当時、世界を支配していた西洋人が“不敗の神”ではないことを示した点である。」

「英国の最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来ごとであった。 しかもそれは‘永続的な重要性’を持つ出来事でもあった。 なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。 1941年、日本は全ての非西洋諸国民に対し、‘西洋は無敵’ではないことを決定的に示した。」(1968年3月22日毎日新聞)

※ 当時の植民地国は、長いところでは300年以上もの期間にわたって過酷な搾取をされ続けていました。 そしてその間、民衆の不満が頂点に達するたびに、暴動や反乱が繰り返されていましたが、それらの抵抗はことごとく鎮圧され、容赦のない弾圧にさらされていました。 その結果、すべての植民地において人口の激減がありました。

当時のアジア人・有色人種にとって、西洋人・白人は‘神にも等しい’力を備えた存在であり、自分たちがどんなに抵抗しても決して敵わない存在であるという思い込みが出来上がっていました。 その思い込みを根底から覆したのが、日本の存在だったのです。 これは、後のアジアの独立運動において、決定的な出来事となったのです。


● ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院・下院議員)

「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。 日本軍は、長い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に驚異の感動と自信とを与えてくれました。 長い間眠っていた『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのです。

私たちはマレー半島を進撃していく日本軍に歓声の声を上げました。破れて逃げていく英軍を見たときに、生まれて以来感じたことのない興奮を覚えました。

しかも、マレーシアを占領した日本軍は、それを日本の植民地としないで、将来それぞれの国の発展と独立のために、それぞれの‘民族の国語’を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。私もあの時にマラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です。

私は、今の日本人にアジアへの心が失われつつあるのを残念に思っています。これからもアジアは、日本を兄貴分として協力しながら発展していかねばならないのです。ですから、今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知ってもらいたいと思っているのです。

先日この国に来た日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。

どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄が遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです。」(『日本人よありがとう~マレーシアはこうして独立した』 日本教育新聞社、土生良樹著)

※ 日本軍が行った統治方法の特徴の一つに、『現地国の‘国語’を普及させた』という点があります。これは、日本軍が統治をしていた国の全てに当てはまることで、韓国・満州・台湾においても行われていました。日本軍は、日本語以上に彼らの言語を尊重し、それを授業として教えていたのです。

ネットを検索すれば、‘国語教育’を実施した際に使った‘教科書’の写真等が見つかると思います。日本語と並んで彼らの言語が書かれていることが分かります。 これは、この当時においては‘異常’といって良いくらいの行為でした。

ちなみに、植民地の国民にこのような教育を施した列強国は、ただの一カ国もありませんでした。 その結果、彼らに支配された国では‘文盲率’が非常に高くなり、そのことは、独立後の発展にとって大きな足かせとなりました。

一方、戦後、韓国や台湾などが急速な発展を遂げた背景には、日本の統治下において国民の‘識字率’が高められたことや、ダムや電力・道路・電車などの社会インフラが整えられていたことがあります。 当時の日本は、彼らを「植民地」として‘支配’していたのではなく、共に生きる「共栄圏」の一員として‘統治’していたのです。


● ジャルーン・チャオプラユーン(タイ王国 元運輸大臣)

「私は、クアンユムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。 クアンユムの日本兵は村人ともに働き、お互い協力して生活していた。 カンチャナブリの博物館で喧伝される日本軍とは全然違う。 優しかった日本兵を私は忘れない。」(2006年1月8日 財団設立準備総会にて)


● タナット・コーマン(タイ王国、元副首相、外相)

「あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。 そしてこれは、日本が勇戦してくれたおかげです。 新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。 誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。」(航空自衛隊機関紙「翼」1995年秋号に寄稿)


★(重要)ラダ・ビノード・パール(インド、法学者、裁判官)

「私は、1928年から45年間までの18年間の歴史を、2年8カ月かかって調べた。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、‘欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人’であることが分かるはずだ。 しかるに、日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。 そして彼らの子弟に『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ』と教えている。 満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分に研究して頂きたい。 日本の子弟が‘歪められた罪悪感’を背負って、卑屈、頽廃に流れていくのを私は見過ごして平然たるわけにはいかない。 誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払しょくせよ。 誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。」(1952年広島高等裁判所における講演録)


★(重要)ククリット・プラモード(タイ王国、元首相)

「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。 日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話が出来るのは、一体誰のおかげであるのか。 それは身を呈して仁をなした‘日本というお母さん’があったためである。 12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。」(サイアムラット紙)


※ 12月8日は、日本が対米決戦を決行した初日、真珠湾攻撃を開始した日です。

この時点では真珠湾の大戦果も、南方への破竹の快進撃も約束されていませんでした。開戦は国の将来が見えない中での重大な決断でした。 戦力の差の巨大さも分かっていたからです。


日本は世界中の欧米列強と戦い、戦争当初は、フィリピンでアメリカを撃退し、インドネシアでオランダを撃退し、ベトナムでフランスを撃退し、インドでイギリスを撃退し、白人国家を次々と打ち負かしていきました。 これは有色人種の人たちからすれば、それまでの常識を逸脱した‘奇跡’のような出来事だったのです。

そして、それを見たからこそ、アジアの国々も『俺たちにも出来るかもしれない』と思うようになっていったのです。 日本がアジアに対して果たした‘歴史的役割’は、尋常でないほど大きかったのです。



忠臣蔵は四十七士の切腹で幕を閉じましたが、大東亜戦争では東條英機さんを筆頭にA級戦犯7名、その他アジア各地も含め1000名余りの刑死で幕を閉じました。
※「A級、B級、C級」というのは罪の重さではなく、『種類』による分類です。

どちらも主君や国家のために忠誠を尽くし、‘義’のために死んでいきました。‘義’とは武士道の考え方で、「道理」「条理」「物事の理」にかなったこと、“人間の行うべき筋道”のことを指した言葉です。


当時、白人帝国主義、植民地主義の巨大な勢力に立ち向かえる民族は、有色人種では日本以外に存在しませんでした。 日本は戦争には負けましたが、アジアの有色人種・数十億人を欧米・白人支配から解放し、当時の『地球の地図』をわずか十数年で‘一変’させたのです。


これが、5000年におよぶ人類の文明史上、最高峰と言われる‘大事件’について、私たちが教えられてこなかった、隠されていた事実の‘一端’です。


次回は、『新しい歴史認識(3)』の最後をお伝えしたいと思います。

(fin)