バトンを渡されました清水です。
第二回では「名取川」についてまとめさせていただきます!
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私たちは今回の公演で、狂言が持つ型を理解しそれを打ち壊すという問題に挑戦しました。
そのために事前の学習として実際に国立能楽堂に赴き狂言を鑑賞し、狂言の持つ「型」を肌で体感し学びました。「型」を学ぶ上で特に目を付けたのは舞台上において現れる「無作為の状態」です。
演じている役者達の間には必ず一定の距離感がある事が分かりました。
それを舞台上において如何に面白おかしく表すかが「名取川」における最大の問題でした。
まず狂言の基本の型である「すり足」と「直面(ひためん)」の練習から始まりました。
基本の所作を会得し、舞台上で実演することで狂言の「型」を出来るだけ忠実に再現しようと試みました。
次に、出来上がった型を軸としながらも、それを打ち壊す作業に入りました。
部室から数々の小道具を引っ張り出し、あれこれ思いつくままに動き回り声を出し様々な模索を繰り返しました。その中からヒントを掴み生まれたのが「すもう」なのですが、「名取川」はまだまだ手がかりが掴めずピンとこないという状態でした。
というのも、大きな立ち振る舞いや劇的な動きはどうしてもあざとさと作為を生んでしまい、今回の試みの本質から外れてしまうからです。
そこで考え方を変え、登場人物に焦点を当てることにしました。
「名取川」に登場するキャラクターはどれも身勝手な自己中ばかりですが、その最たるものが語り部であり主人公であるお坊さんです。
「名取川」は最近身の回りで起こった出来事をさも英雄の偉業であるかのようにお坊さんが誇張して語った物語なのです。
しかし、実際の内容はというと驚くほど滑稽なものです。そんな内容を偉そうに語っているお坊さんもまたなんとも滑稽に見え、クスリと笑ってしまうような、そんな物語なのです。
ここからヒントを得て、思わずクスリと笑ってしまう「滑稽な自己中」作りが始まりました。
しかし最初は中々上手くいきませんでした。
というのもお坊さんと名取の地主という自己中の二大巨頭を演じる際、あまりにも誇張して演じてしまうとあざとさや作為が強く出てしまい、途端に狂言という色味は薄れ現代演劇風に近付いてしまいます。
また「私はこういう役をやっています」「面白いでしょう笑ってください」といった役者からの押しつけばかりの演技になってしまうという弊害も生まれました。
コテコテの演技からはクスリ笑いは生まれません。
なのでなるべく表情や体の動きを抑え、「無」の状態を作り出す努力をしました。
しかしこちらもやりすぎるとただ平淡なものとなり、ともすればただの「つまんない舞台」「ただ狂言をやろうとしたお堅い舞台」になってしまいます。
ここからも狂言の持つ豊かな面白みは生まれません。
丁度いいところはどこなのだろうという考察と練習が続きました。
そうして出来上がったのが本番の「名取川」です。
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まずお坊さんが「すり足」での登場。狂言の「型」を表現します。
次に狂言の発声法で語り出すのですが、後見のため息により遮られ、そこからは現代語のセリフ普通の発声法となります。
発声法とセリフが変わってからは「型」も一変させます。
新しく作った「型」として、お坊さんがほっぺたをぺちぺちし始めます。速度や始めるタイミング止めるタイミングは自由ですが、物語の初めから最後までお坊さんはこのほっぺたぺちぺちの「型」に縛られます。
さて問題となる無作為の演技ですが、呼吸を意識することによって表現しました。
動きや声だけで表現する役者本位の固い演技ではなく、会場にいらしたお客様の視線や空気を感じ取り、それに沿う形で表現する柔軟な演技になるよう心がけました。
次に、本作における自己中ツートップの片割れ名取の某が登場します。
名取の某の自己中さは排他的な田舎者からヒントを得ました。
その土地土地に存在するルールがさも当然の理であるかのごとく振る舞います。
お坊さんがほっぺたをぺちぺちさせていたのに対し、こちらは腕組みし腰を曲げた低姿勢の状態で現れます。
最後に物語はクライマックスとなり、ほっぺぺちぺちを型に持つ気だるげな自己中と腕組み上目使いを型に持つ田舎者自己中がぶつかり合います。
見事お坊さんは名取の某を打ち倒し、ぎゃふんと言わせます。
最後にお坊さんは喜びの舞を踊りますがそこも無表情を貫きます。最後、「型」であるほっぺぺちぺちをしながら舞台は幕となります。
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以上が「名取川」に関する考察と成果の流れです。
舞台が終焉し、お坊さんと名取の某は直面に戻り、舞台後方の席に座ります。
次の演者が立ち上がり、次なる演目「すもう」が始まります。