『夏の午後』 作/ルル



蕎麦をすする

母と二人で

午後の西日が当たる

誰もいない蕎麦屋で

母と二人で

蕎麦をすする



とろろそばを食べる母は

とろろをかけない

とろろをかけないと意味がないよ

と声をかけると

目の前のとろろに気がついていなかったようで

咄嗟にとろろの鉢にそばつゆをかける



若い頃は叱ってばかりだったその口元は

皺の夥しいおちょぼ口となり

そばをすするのもままならない



艶のあった黒髪も

白く染まり

後ろでちょこんと束に結んである



そんな初老の母の姿を目にする度に

わたしが子どもでよかったのだろうか

父と一緒になって幸せだったのだろうか

自分の人生をどう回想しているのだろうか

と胸がぎゅーっと押し潰されて

言葉にならない

いつまで経っても

娘である自分に申し訳なく思ってしまう



母と子が入れ替わることができたなら

母が小さな赤ちゃんになって

わたしの胸に抱かれて



二本足で歩けるようになったなら

手を繋ぎ緑の中を散歩して



言葉を覚えるようになったなら

絵本をたくさん読み聞かせて



そうやって

母と子を入れ替えることができたなら



もっともっと

あなたをわかってあげられたかも知れない




。。。。。。


少々

ルルさん

の作品を拝読して感じたことを書いてみます。



人のバイオリズム

「おぎゃぁん♪」

って産まれて

当然自身のことはなにひとつできやしない

そこには

親の愛情があって

誕生した命に

ガイドの主役とも言うべき

親の保護のもと二本足で歩けるよう努める。

ときに主役不在もあろう

そんなときは

いろんな脇役が一役を担う。


いろんな援助で独り立ちになるころには

主役の親は老いには勝てず

人の性

いつしか

自身の無力さ

ガイド役の引退を意識する。


まるで

自意識ができるまで

一人で大きくなったかのような

錯覚を反省するかのごとく。


だからこそ

『老いては子に従え』の

先人たちの教えを学び

親子の関係が形勢逆転になろうとも

かけがえのない

親子関係だからこそ

先入観や過去の間柄を抜きにして

自然のバイオリズムに乗っかり

なによりの二人三脚できる間柄

『親子関係』を

悟るのかなって…


この作品を拝読して

そんなことを感じました。