もともと細い髪や白髪は,毛母細胞も活発には分裂していないのか,抗がん剤に見つかりにくいらしく,そういう毛が残っていて,返って見た目が怖いガーン

 

全体的に残っているけど,落ち武者にしては乏しいし,映画のゾンビみたいガーン

 

パクリタキセルでは,皆「ツルッ」と行かないみたい。

 

この日,実家の水道が復旧。

 

この数日前に仙台ではガスが復旧した。

 

仙台では緊急対策として新潟からガス管を引いてあり,損傷していないことを確認して,そちらを開栓しての復旧となったようだ。

 

とは言え,一軒一軒につながっている,全てのガス管が壊れていないことを確認しながらの,一軒一軒の開栓…!

 

この根気のいる作業は,日本全国のガス局からの局員さんたちの協力で達成された。

 

給水車だって交通整理だって避難所の運営だって,皆日本全国の自治体の名前が書かれたユニフォームを着ていた。

 

ユニフォームのない人も,全国から行ってくれたね。

 

本当に本当にありがとうありがとうありがとう。

 

地元の自治体の職員さんたちは,普段の仕事に加えて,来られなくなった職員さんたちの分の仕事,そして救助や復旧の仕事を,自分たちの家も大変なのに,でもやらなきゃならない。

 

義兄は県職員だ。

 

震災で半壊した自宅は,前回の余震でさらに壊れたが,やはりそこにビニールシートを張って住んでいた。

 

4月13日,義母は石巻の自宅に帰り着いたとき,もう自分では歩けなかったようなのだけど,義父は一晩寝れば大丈夫だろうと思ったのか,義母を抱えて布団に寝かせた。


14日の朝,義母は起きなかった。

 

脳に糖が行かないのは,脳に酸素が行かないのと同じくらい大変なことだとは,私も知らなかった。

 

入院してすぐに,義母の意識は回復した。


手足にも麻痺は無い。

 

しかしその言動はこのとき,完全介護が必要な状態に陥った。

 

夫の実家の近所に住む叔父夫婦が,仕事の合間に顔を出すだけでは全く足りず,71歳の義父と交代で,義兄が仙台から行って病院に寝泊りする生活が始まった。

 

私の仕事はもともと3月一杯だったことは,義父も知っている。

 

仕事をしていない私が手伝いに行かないことが,この上無く不自然になって来た。

 

震災で入らなくなった物資の代替を探すのに,夫は夜中まで働いていた。

 

東京仙台間,仙台石巻間は,高速バスが復旧していた。

 

助けに帰ってこない私に苛立った叔母に,電話で語気を荒げて涙ながらに現状を訴えられ,私はガンであることを告げた。

 

ガンを言い訳にして,行くのを免れようとしているように聞こえはしまいか,それが心配だった。

 

助けに行こうとして先生に相談したが,正常な人の半分以下しか白血球のない私が,このときの石巻赤十字病院に行くのは命がけのことで,もちろんドクターストップ。

 

義母は69歳だが民生委員だったこともあり,倒れる前日まで,避難所の炊き出しの手伝いに毎晩駆り出されていた。

 

いつもは寝床に入る時間の慣れない仕事。

 

義父にも,ほどなくしてガンであることを告白した。

 

私はガンについて,趣味のサークル仲間には早い段階で告白してたんだけど,それはその方が急に休みたいときも皆が納得できるし,初めから私が病気であることを踏まえて予定を立てられるということは,お互いに有益だと思ったから。

 

実際そうだし。

 

義父も私に告白されて,やっぱりスッキリしたみたいだった。

 

仕事で極限状態だった叔母も,徐々に平静を取り戻して行った。

 

当てにできないならできないと,はっきり分かった方が,道が開ける。