内なる敵 | 肺がんステージⅣホスピスから完治を目指すべにましこのブログ

肺がんステージⅣホスピスから完治を目指すべにましこのブログ

2012年8月、末期の肺がんが寛解。したものの、12月に再発。
じっくりと治す方向で、まずは健康を取り戻すことを目標に、のんびりと(^O^)/

こんなこと書いてどうなるんだ、とも思いますが、

死ぬかもしれない病気になった今は、

吐き出しておきたいので、書きます。

もちろん、すっきりして寛解を目指す方向で。



病気になって、

ポジティブシンキングをさらに心がけるようになったけど、

ワタシの場合、一番やっかいなのは、怒りの感情。

それは、外に居て、

倒せばいいとか避ければいいとか言う簡単なものじゃなく、

自分の内側にあるもの。


人間は怒るとノルアドレナリンなどの脳内物質を出すらしい。

それは、蛇の毒につぐ猛毒だそうで、

発がん性物質になったり、老化を早めたりするんだとか。

(詳しくはぐぐってね(^^;)


ワタシの場合、

一番の怒りは、もう20年近くも前の経験。

バブルが弾けて、勤めていた会社をリストラされたこと。

念願の絵を描く仕事だったし、

染織デザインの仕事は楽しかったし、真面目に勤めていたし、

休みの日もデパートに出かけたりして、

仕事に関する情報収集に努めてました。

それが、バブルが弾けて人員削減で、

入社して2年経ったばかりの若い社員だったワタシが辞めさせられました。

社員は10数名の小さな会社でした。

人見知り激しいワタシでしたが、

他の社員や上司とは仲良く付き合えてたと思います。

絵描きになる夢も捨ててはいませんでした。

会社勤めして、学費の借金を返済して、

ゆくゆくは勤めながら好きな絵も描いて、と思っていたのに。


解雇されたあと、暫くは無職のまま1年過ごし、

暗い日々を過ごしました。

なんで自分が辞めさせられなくてはならなかったのか、

ワタシが何をしたというのか。

毎日毎日、悔しくて。

死にものぐるいで仕事をしなかったから?

でも真面目に言われた以上のことをやっていたのに。

とにかく、考えても考えても、

最終的には自分を責める方向にしか思考できなくなっていたのです。


その後、

会社の金を数千万単位で使い込んでいた社員が居たことが発覚したと、

会社の誰かから聞きました。

けど、その社員は解雇されなかった。

社長が会社を作る以前に居た会社から社長に付いてきた社員だから。

結局は、情の部分で、ワタシは切られた。


それ以来、人間が信用できなくなりました。

お腹を毎日壊すので出かけられず、夜は寝られず、

昼夜逆転の生活をし、身体もぼろぼろになりました。

(最初の健診で骨年齢が47歳と言われました。。20代半ばで(^^;)

誰とも付き合いたくない。

誰にも自分の話をしたくない。

当時一緒に居ることができたのは、今のだんなだけ。

だんなには、ほんとに長く精神的に支えてもらいました。

(なのに、今度は病気になって、本当に申し訳ないしょぼん


1年間失業したあと、生活費が底をつきかけ、

当時まだ殆ど社会で知られてなかった訪問介護の仕事に就きました。

またデザインの仕事に戻ろうと思って探しはしたけど、

バブルが弾けて、市内の同業の会社が次々倒産していた時代、

経験の少ないワタシにはそうそういい仕事は見つからず。

たまに会った親戚には、仕事を選んでるんじゃ?と言われ、

身体のこともあったので、デザイン関係は諦めました。

少しずつ仕事を増やして、少しずつ元気を取り戻し、

普通の生活を営めるようになりました。

人間が相手だから、一生懸命でした。

それがリハビリになりました。


だんなや仕事の同僚、利用者さん、いろんな人に恵まれ支えられ、

今まで生きてこれました。

けれど、ふとした拍子に、失業した過去のことを思い出し、

怒りとまでは行かなくても、頭が痛くなるような、辛い感情に苛まれます。

今の仕事を辞めたくなったことも病気になった原因のような気がしてますが、

これこそが、ワタシが病気になった一番の原因なのかもしれない。

これをコントロールしなければ。


普段は殆ど怒らないです。

とってもノウテンキでのんびりしてます。

怒るのは余程のことがあったときだけ。

楽しいことを見つけて、忘れよう。