第74代 鳥羽天皇 安楽寿院陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成28年9月30日(金)参拝】

 

最寄駅は近鉄「竹田」駅。ここから南西に600m行った安楽寿院の西隣に御陵はあります。

この竹田周辺には72代白河帝、74代鳥羽帝、76代近衛帝の3代の御陵があります。                 

 

                              

鳥羽天皇(1103~56)は譲位後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築した。その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝わっています。

 

               

 

               

鳥羽(とば)天皇陵 御陵名:安楽寿院南陵 陵形:方形堂
所在地:京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

生前の保延5年(1139年)、鳥羽の安楽寿院境内に三重塔の寿陵を営み、崩御後遺詔により遺骸をこの塔下に納めた。その後焼失と再建を繰り返したが、やがて所伝が混乱し、近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認される時代が元禄以後幕末まで続いた。元治元年(1864年)の修陵に際して修正され、現陵とされている。

               

いつもの御陵とは一風変わった寺院風の御陵。白壁が神々しい。

               

 

               

 

               

 

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。

堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇近衛天皇後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。

 

生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。

当然ながら幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化した。

白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を天承元年(1131年)に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める。有力な院司として、藤原顕頼や藤原家成がいる。また伊勢平氏の平忠盛の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳の崇徳天皇譲位させ、得子所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となる。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われ、崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。

鳥羽の安楽寿院御所にて崩御し、遺諡によって、鳥羽院と追号された。明治以後、院号は廃止され、鳥羽天皇となった。

 

【系譜】

中宮:藤原璋子(待賢門院)(1101-1145) - 藤原公実女

 ・第一皇子:顕仁親王(崇徳天皇)(1119-1164)

 ・第四皇子:雅仁親王(後白河天皇)(1127-1192)

皇后:藤原泰子(高陽院)(1095-1155) - 藤原忠実長女

皇后:藤原得子(美福門院)(1117-1160) - 藤原長実女

 ・第九皇子:体仁親王(近衛天皇)(1139-1155)

中宮・藤原璋子(待賢門院)は、幼少より白河院の養女となって溺愛されており、『古事談』では、鳥羽院崇徳天皇を「叔父子」(祖父・白河院の子、叔父である子の意。)と呼んでいたとしている。

(2016年2月8日Wikipedia引用)

 

2012年の大河では三上博史が鳥羽上皇を演じていましたね。